筑波日本語研究 第四号

1999年10月15日発行

安部 朋世

とりたて,クライ,クライの位置,最低限,モダリティ

要旨

本稿は、「最低限」を表す「とりたて」のクライ(グライ)について、「最低限」の意味をより分析的に捉え、記述し直すことを目的とする。

「最低限」を表すとされるクライを含む文は、

  1. クライによって示される部分が表す事態について、「簡単/たいしたことではない」という意味に感じられる文だと言い換えられる
  2. クライは命題をスコープにとりモダリティ部分をスコープにとらない
  3. 「現象描写文」の場合は、他の種類の文では「最低限」の解釈が可能となる「名詞+助詞+クライ」の位置にクライを置いても、「現象描写文」に解釈できず、不自然な文に感じられる

という特徴が指摘できる。このことから、「最低限」を表すとされるクライを含む文は、

  1. 発話者が、クライによって示される当該事態を〈実現可能性が高い〉事態であると位置付け、そのように位置付けた事態について、「実現したい/実現できる/実現する/実現した/実現しろ…」等の発話者の主観的態度を表明する文

だということができる。この記述によって、「最低限」を表すクライを含む文全体を統一的に説明することが可能となり、「とりたて」研究にとって重要な〈とりたてられる要素と他の要素との関係〉についても、従来より明確に表すことができる。

石田 尊

意味役割,語彙概念構造,語彙的使役構造,分離不可能所有関係

要旨

本稿は、日本語の他動詞文に現れる、行為者の解釈を持たない主語(非行為者主語)を取り上げ、そのような主語を許す他動詞の意味構造と、非行為者主語の意味役割を明らかにすることを目的とする。本稿1節では、非行為者主語を取り得る他動詞とはどのようなものであるのか、その具体例を取り出すための記述が行われる。続いて2節では、非行為者主語の意味役割を確定し、また非行為者主語を許す他動詞の意味論的な特性を明らかにするための考察を行う。また3節では、行為者的ではない名詞句を主語に取るその他の構文との関わりを述べる。本稿の主張は、

  1. 日本語には、「殴る」「叩く」のような働きかけ動詞の目的語と同じ意味役割(被行為者)の名詞句が、他動詞の主語として現れる場合があるということ
  2. 被行為者を主語に取り得る他動詞は、その語彙概念構造において、間接的な語彙的使役構造を許すとされるCAUSEと、客体の非限界的な変化を表すMOVEという意味述語を持ち、かつ経路を表すPATHを持たないものに限られること

の2点である。

井本 亮

「ほど」,解釈可能性,有界性,内部構造,boundedness,動詞分類

要旨

本稿は、「部屋に入りきらないほど本があった」「手が赤くなるほど壁を叩いた」など、「ほど」が構成する副詞的修飾成分を含んだ構文(以下、「ほど」構文と呼ぶ)の意味解釈の原理を明らかにすることを目的とする。本稿ではJackendoff(1992)で提示された有界性と内部構造という概念が動詞句の限界性から名詞句の定/不定に至る汎範疇的概念素性であることを援用し、それが「ほど」構文に伴う解釈可能性の説明に有効であることを示す。また、動詞クラスおよび主文中の名詞句が持つ有界性が、「ほど」構文の解釈と相関することを示す。そして、「ほど」構文の解釈可能性が、主文事象の有界性の計算によって統一的に導かれることを明らかにする。本稿の結論は、「ほど」構文の解釈原理を理論的に説明することを得ると同時に、より一般的な副詞的修飾成分と動詞との共起関係の考察に関する接近法をも示唆するものである。

堀池 尚明

助詞「シ」,原因・理由表現,共起関係,並列,文的独立性

要旨

本稿では、「シ」を用いた原因・理由表現が文として自然に成立する条件を、「カラ・ノデ」と比較しながら見ていく。特に後句の特徴を中心に見ながら、前句と後句との共起関係に着目すると、以下のことが指摘できる。

まず、(1)後句がモダリティに関わる表現の場合、基本的には「シ」の文が成り立つが、相手への行為要求表現の場合には「シ」の文が成り立ちにくい。(2)後句が確定的な事態の描写的叙述になっている場合、無意志的な事態の叙述であれば、「シ」の文は成り立ちにくくなるが、意志性のある事態の叙述であれば「シ」の文が成り立つ。ただしその場合でも人称は一人称の方が自然である。(3)後句が話し手の感動や詠嘆を表しているような場合、「カラ・ノデ」よりも「シ」を用いた文の方が自然である。

そして最後に、これらの共起関係が「シ」の持つ並列性と文的独立性の高さに起因するものであるということを指摘する。

権 景愛

上代,音節脱落,脱落の機能,アクセント

要旨

「カハハラ(河原)>カハラ」「オノレ(爾)>オレ」「タマフ(給)>タブ」のように、上代日本語において表記の上で音節が脱落しているように見える例には、実際に音節が脱落したと見なし得るものと、促音・撥音を発生させている可能性のあるものとがある。小論では、同音節(または清濁関係にある音節同士)および形態素の内部において発生した脱落形は、実際に音節が脱落した可能性が高く、本来の語形のアクセントを保存している傾向が見られることを明らかにする。さらに、脱落形には言語の運用の上で次のような機能を果たしていることを明らかにする。

  1. 音節が脱落することによって、複合語においては一語化の標示や語の長さの調整機能を果たし、韻文においては音数律の調整機能を果たしている。
  2. 脱落形を非脱落形と比べると、両者の間には機能の分担が行われており、脱落形には非脱落形からの意味の派生および文体上・待遇表現上の価値の減少を標示するなどの機能が認められる

高橋 由美子

漢字片仮名交じり表記,片仮名宣命体,声点,句切点,振り漢字,振り仮名,切句,表語機能

要旨

本稿は、聞書『解脱門義聴集記』を対象として、和語に加えられた声点について、加点の目的と役割を考察することを目的とする。具体的には、特徴的な加点パターンを指摘し、句切点など他の表記要素と声点との関係を明らかにする。

『解脱門義聴集記』の表記は、奥書によると、「清書」と三回の「切句」という二つの過程を経ている。現存する転写本である金沢文庫本に見られる句切点・声点・振り仮名・振り漢字などの補助記号は、「切句」として加えられたものと推測される。また、特徴的な加点パターンとして、(A)同仮名異語との取り違えの可能性がある語への加点、(B)異分析される可能性が高い語への加点、(C)文体基調から外れる語への加点、(D)話題の上で重要な語への加点、(E)漢字の訓みを示した語への加点、の五つがある。これらのパターンと他の表記要素との関係は、(A)(B)は本書が漢字を多く交えた片仮名宣命体であり、かつ、句切点が頻用されていることと関係しており、最も用例の多い(C)は被加点語が原則的に漢字表記が期待できない語であり、声点がこの場合に語の同定を最も確実に行い得る手段である。このように本書の声点は片仮名宣命体の表記において、他の補助手段と相互補完的に使用されている。

奧村 彰悟

へ格,に格,浮世風呂,江戸語

要旨

現代日本語では「学校へ行く」「学校に行く」のように、「へ」格と「に」格は方向・場所を表す格助詞として用いられる。本稿では、江戸語における「へ」格と「に」格の用いられ方を検討するため、『浮世風呂』を資料として、『浮世風呂』の登場人物を言葉遣いの丁寧度による つのグループに分けて「へ」格と「に」格の使用差について調査をしたその結果、全体的には、「へ」格が「に」格よりも優勢であった。さらに、丁寧な言葉遣いをするグループの登場人物が、「お方々へおつしやりおかれまして」のような、人物を表す名詞を受ける「へ」格も用いていた。このことは、全体的には、言葉遣いの丁寧度によって「へ」格と「に」格との使用に差が見られなかったのに対して、人物を表す名詞を受ける場合には「へ」格と「に」格に差があったことを示している。

大倉 浩