筑波日本語研究 第六号

2001年08月31日発行

橋本 修

「てみる」,「ておく」,否定,対極表現

要旨

「てみる」と否定辞、「ておく」と否定辞との共起について、『CD-ROM版 新潮文庫の100冊』を対象に調査を行い、前回調査(橋本・松本2000「「てしまう」と「ない」との共起について」『筑波日本語研究』5。以下「前稿」と呼ぶ)との比較を行った。

結果の概略は、「てみる」「ておく」とも、全体としては否定辞との共起率は「てしまう」のそれより高く、「ておく」の場合には「ている」と否定辞との共起率をも大きく上回る。しかし、出現場所を主節に限定し、否定辞の方に「慣用形を除く」・「命題内否定、かつ、もっとも単純な形」というような条件を付けた場合には、「てみる」「ておく」も「てしまう」同様、共起率は「ている」より相当に低く、特に「てみる」の場合は「てしまう」に近い状況を呈する。一定の条件の下では、少なくとも「てみる」はある種の肯定対極表現であると言える。このことは、「てしまう」、ひいては古典語の「つ」「ぬ」のような広義完了形式が否定辞と共起しにくいことについて、その個別的意味が原因となっているという説明に、一定の疑義を投げかけていることにもなる。

冨樫 純一

談話標識,感動詞,応答詞,心的操作,語用論

要旨

いわゆる談話標識(心的操作標識)の中でも情報の獲得を示すと考えられるものが多く見られる。しかし、個別的・逐次的な説明はあるものの、その統一的な分析はあまり行われていない。本稿では、情報の獲得を示す談話標識の中でも、「あっ、えっ、おっ、ふーん、へえ、ほう、はーん、はい、うん、はあ」を取り上げ、これらの統一的な分析を試みる。 従来言われてきたような聞き手への何らかの働きかけを、これらの談話標識に求めるのではなく、談話標識の本質は話し手の心内での何らかの操作(情報処理)を示すものであると考える。このような捉え方を取ることで、独り言や連続発話など、談話標識の様々な使用に対して明確かつシステマティックな説明を与えることが可能となるのである。

井本 亮

限界性,複数性,多回性,有界性,概念意味論

要旨

従来、動詞文が表す動作・事態の終結に関する研究では、「限界性」の概念からの説明が行われ、大きな成果を上げてきた。しかし、動詞文の意味解釈には、限界性だけでは統一的な説明ができない現象が散見される。それは対象物の複数性などが事態の限界性解釈を含む文の文法性に深く関わる事例であるが、本来「数」の標示が義務的文法範疇ではない日本語においては、このような問題は捨象されてきた。本稿では、こうした事例を限界性という概念で説明することの問題を論じ、それにかわる概念として、動作の限界性、実体の複数性、経路の限定性をも射程に収める範疇横断的概念である「有界性」を導入する。有界性の導入によって、事態レベルの終結の問題に統一的な説明が与えられる。

川野 靖子

壁塗り代換,格交替,位置変化,状態変化

要旨

いわゆる「壁塗り代換」を成立させる動詞の条件について、従来の研究では「位置変化動詞としての側面と状態変化動詞としての側面を備えた動詞が代換を成立させる」ということが指摘されている。しかし、この場合の「位置変化動詞としての側面」、あるいは「状態変化動詞としての側面」が指す具体的内容が明らかでないため、先行研究の規定だけでは代換可能動詞と代換不可能動詞を明示的に区別することができない。

本稿の目的は、代換可能動詞と代換不可能動詞の具体的な違いの分析を通じて、従来指摘されている「壁塗り代換」の成立条件をより明確化することにある。本稿では特に、状態変化構文に生起するが位置変化構文には生起しないタイプの代換不可能動詞と代換可能動詞の違いを分析し、代換可能動詞の持つ「位置変化動詞としての側面」の具体的内容について論じる。

張 根壽

副詞,モダリティ,確信,不確実,可能性

要旨

日本語の副詞の中には、「キット/タブン/モシカスルト」のように、文末にいわゆる推量表現を伴うものがある。これらの副詞は、話し手の主観性を表すものとして、命題成立の蓋然性というスケール上、連続するものとして処理されてきた。しかも、文末のモダリティの意味を記述するためのテストとして用いられるなど、個々の副詞の具体的な意味・用法の分析が行われないまま、副詞の意味は共起関係にある文末形式の意味と同様なものとして扱われてきた。本稿ではこのような問題提起の上、「キット/タブン/モシカスルト」の共起の傾向性の調査に基づき、個々の副詞が持っている固有の意味機能と共起現象がどのように関わっているか、という問題を明らかにした。

又平 恵美子

誤用,自動詞と他動詞,テイルとテアル,受身,状況

要旨

日本語母語話者の会話で「イチゴが売っている」というような表現が使われることがある。商品が「ガ」で示されるのは、単なる言い誤りによる格の誤用として処理してしまうには出現の頻度が高く、一つの定型構文として成立してしまっているものであると考えられる。

動作主ではなく対象が「ガ」によって表示されていること、必ず「売っている」などテイル形で現れるということ、商品の所有権が移動しないという状況に限定されているということがその構文が成立可能となる特徴としてあげられる。このような表現が存在し得る理由は、「商品として物が存在している」ということだけを表現するためには、冗長的でない規範的な言い方では言い表しにくいということが考えられる。

永田 里美

副詞,モシ,仮定条件文,疑問文,主観的表現

要旨

本稿は中古の和文系文学作品を資料として、副詞モシの用法上の整理を行ったものである。

中古和文系資料におけるモシは、仮定条件文や疑問文と共に用いられることが多い。それらの形式と用法をみるに、仮定条件文についてはバ、トモという主観的な仮定表現がみられ、また疑問文については問いの性格が希薄な、不確かさを述べ立てる表現であることがわかる。その他の用法についても、モシは推量や推定表現と共に用いられていることから、モシには共通して話し手の主観的な想定事態を提示するという機能が認められるといえる。

李 淑姫

中世日本語,ホドニ,焦点,情報構造,階層

要旨

大蔵虎明本狂言集にはニヨッテ、ホドニと関連して、以下のような構文が見られる。

1) この綱を引いたによつて、 杖があたつたものじや    (うり盗人)
2) こひのおもにといふ事が有程に、此文は恋の文である物じや (文荷)

これらを「pニヨッテqモノジャ」「pホドニqモノジャ」構文(p・qは命題)とよぶ。二種の構文はそれぞれニヨッテ句、ホドニ句を前件とし、[qモノジャ]を後件とする同一構造の複文のようにみえる。本稿では、一見同じ構造をもつようにみえるこれら二種の構文が異なる統語構造、意味構造、情報構造をもっていることを指摘する。本稿の考察によると「pニヨッテqモノジャ」「pホドニqモノジャ」構文の統語構造、意味構造、情報構造は次のようになる。

3) 「pニヨッテqモノジャ」
  [[pニヨッテ          q]モノジャ] (統語構造)
  qが表す事態の「原因」・行動の「理由」 (意味構造)
  [pニヨッテ]は潜在的焦点位置になる (情報構造)
4) 「pホドニqモノジャ」
  [[pホドニ]         [qモノジャ]] (統語構造)
  [qモノジャ]が表す判断の「根拠」 (意味構造)
  [pホドニ]は潜在的焦点位置になることはできない     (情報構造)

虎明本における両構文の構造の差は、階層論からみてニヨッテがB類、ホドニがC類に属するという立場と相通するものである。

福嶋 健伸

ウチ(ニ),~テイル,動詞基本形,文法化,限界性(telicity)

要旨

中世末期日本語のウチ(ニ)節の節述語を調査すると、現代日本語の場合と比べて~テイルの例が少ないこと、また、これらの~テイルの例には、具体的な動きのある動作継続(動的な動作継続)を表していると解釈できる例がないこと等がわかる。一方、中世末期日本語のウチ(ニ)節の節述語には、動詞基本形の例が多く、具体的な動きのある動作継続を表していると解釈できる例は、全て動詞基本形である。これらのことから、中世末期日本語の~テイルが、現代日本語の~テイルほど自由に弱進行態を表していたとは考えられず、当時の~テイルが表しにくかった部分は動詞基本形が担っていたことが窺える。

また、ウチ(ニ)節の節述語に見られる~テイルと動詞基本形の分布の偏りは、ウチ(ニ)節のみにとどまらず、概ね中世末期日本語全体を通して見られるものであり、当時の~テイルの文法化の度合いを反映していると解釈するのが妥当である。すなわち、当時の~テイルは、まだ、具体的な動きのある動作継続(動的な動作継続)を、十分に表せる段階ではなかったといえる。

趙 來喆

対訳,音注,真横表記,ずらし表記,日本語学習書

要旨

本稿は、『捷解新語』改修本におけるハングルの対訳と音注の配置を中心に調査・考察を行ったものである。それによって、朝鮮語による対訳の配置とはちがって、ハングル音注の場合は基本的に日本語本文とハングル音注とが一対一の相対の形式を取っていることが指摘できる。一方、促音、撥音、拗音、舌内入声音(閉音節)などの場合には日本語本文に対してハングル音注が一対一の相対(真横表記)ではなく、二対一、または三対一の相対(ずらし表記)で示され、ハングル音注が日本語本文の仮名と仮名のあいだにずらして表記されるのが一般的であることが分かる。これは『捷解新語』が外国人のための日本語学習書という性格から、朝鮮語の音韻体系及びハングルの表記原理になじんだ朝鮮人学習者に日本語の正しい発音を学習させようと音注の配置を工夫した結果であると解釈される。