創刊のことば



 筑波大学では、開学以来、私どもの専攻名を、「国語学」ではなく「日本語学」と呼んできた。これは、国際化の進んだ今日の社会においては、一段と妥当な呼称になっていると言うべきであろう。
 「国語」には、わが国の言語、つまり自分たちの国の言語という意味がある。そして「国語学」には、外国語を研究するのとは違った、内省のきく自分の言語についての研究、あるいは言語そのものだけでなくそれを育ててきた歴史も文化も自分のものとして理解している言語についての研究、という含みがある。確かに、自国語の研究には、外国語の研究にはない有利さがある。そして、「国語学」は多大な成果を挙げてきた。
 しかし、今や日本語は、日本人だけの言語ではない。世界中の人々に話され、世界中の人々に研究の対象とされている。多くの外国人が日本国に入ってきて、日本語を話している。多くの外国人研究者が、日本の大学で、あるいは自国の大学で、日本語を研究している。そういう人たちにとっては、言うまでもなく、日本語は決して「国語」ではない。筑波大学にも、主として大学院にだが、日本語を研究する外国人留学生が多数在籍している。そういう研究者にとって、日本語の研究は「日本語学」であって、「国語学」ではない。  日本人研究者にとっても、日本語の研究は「日本語学」であって何の不都合もない。英語の研究が「英語学」であり、中国語の研究が「中国語学」であるのだから、日本語の研究を「日本語学」と呼ぶのは、むしろ整合性のあることである。国語を「日本語」と呼ぶのは、日本語を英語、中国語、ドイツ語、フランス語などと並べて、世界の言語の中の一つの言語として位置づけることである。そして「日本語学」は、日本語をそのように位置づけて、言語の一つとして客観的に研究するものである。
 最近、大学院が忙しくなってきた。特に博士課程が課程博士を出すように強く要請され、課程在籍中に学位論文をまとめなければならないような状況になってきている。これはしかし、文系以外では以前から行われてきたことで、博士課程があるからにはそれを修了するのが当然のことであり、修了するためには学位論文を提出しなければならないのである。ただ、私どもの分野では、自分の研究領域が固まるのにやや時間がかかり、課程博士を取得するのは、一般には、不可能に近いことのように思い込まれてきた。それだけに学位論文の内容が質・量ともに高級のものであったということでもある。
 しかし、昨今の事情はそれを許さなくなってきている。早く学位をとらなければならない。近隣諸国では、学位のない者を教員として採用しない大学が多い。日本にも、そういう大学が増えてきた。私どもは、大勢の大学院生をかかえ、全員に何とか学位論文をまとめてもらうべく、懸命に指導を続けている。私どもの研究室では、教官全員が出席して大学院生が自分の研究テーマについて発表するのを聞き議論をするという研究会を毎週持ってきた。そこに用意されるproceedingsは、形式の上では、そのまま研究誌に載せてもよいようなものである。しかし、私どもは、これまで、発表論文はできるかぎり練り上げて欠点の少ないものに仕立て上げるべきだという考えで、論文として安易に誌上に発表することには慎重であった。
 この指導方針は間違いではなかったと思う。最初の論文がその人の一生の論文の方向を決めてしまうというところがある。研究の内容、論文の構成、表現のいずれも、最初がいい加減であると、最後までいい加減になってしまう。しかし、あまり厳しすぎると、論文が書けなくなってしまうこともある。中田祝夫先生が在職中に、「芽が出て間もない苗木を、早く伸びよと無理に引っ張ると、枯れてしまうぞ」と言われたことがあった。最近、古田東朔氏から寄贈された『東朔夜話』(鶴見大学日本文学会 平成8年6月20日刊)の「時枝誠記先生のこと」の中には、

個人的に接触して、直接お話をうかがうようになったのは、卒業してから後のことである。私は、初め刀江書院の編集部にいて、『国語教育講座』や何集分かの『国語学』の刊行なども担当していたので、先生のところへうかがうことも多くなったのである。そういう折の先生のお話になった中で記憶に残っていることは、ある程度完全な形でなければ発表させない先生、また発表しない人もいる。だが、不十分な点があるにしても、発表すれば、本人自身もそうすることによって気づくことがあり、また、他の人によって訂正してもらえることもあって、成長もしていくものだとおっしゃったことである。 こういう点、安倍能成先生のお考えとも共通する点があるように思う。安倍先生は、「人間は表現的動物なのだから」とおっしゃったり、また表現すること自体、善でもあり、一種の社会的責任でもあるという意味のことをおっしゃったりしていた。時枝先生は、そういうお考えからか、門下生がどういうことをテーマにするかという点も加えて、その発表することについては、寛容な態度を取っておられたように私には思われる――もっとも、そのことは、本人自身にとっては、責任のあることになり、また自己を確立しなければならないことにもなってくるのであるが。

という記述がある。表現すること自体が善であるかどうか、については私には自信がないが、もう少し自由に、自分の責任で発表してもらってもよいのかも知れないと、気が楽になった。至らないところには目をつぶり、よい所を評価するような読み方も必要であろう。樹木を例にとれば、太陽と水とそして肥料を存分に吸収しぐんぐんと成長する、その徒長枝をちょんと切って姿を整えてやる、そんな役をする立場に立ってみたい、それが私の望みである。
 本誌は、筑波大学大学院博士課程文芸・言語研究科言語学専攻の日本語学関係の教官および大学院生の研究成果を発表するものとして刊行するものである。日ごろ考えているところの一端を述べて創刊のことばとする。


    平成8年8月8日


北 原 保 雄  




『筑波日本語研究』一覧へ戻る