1回日本語文法教育研究会シンポジウム資料     2001.5.21 於:京都教育大学

 

学校文法とインダクティブ・アプローチ

 

大阪外国語大学大学院 森篤嗣

hch13001@hcc1.bai.ne.jp

 

1.文法教育の意義を問い直す

(1)国語科教育と言語教育

 国語科教育(1)が母語の教育を担うべき教科であるということについては,概ね異論のないところであるようだが,「国語科教育は言語教育である」と言い切ってしまうことには,やや抵抗のある人も少なくないようだ。国語教育や日本語学などの研究界や,教育現場の意見をとりまとめるのは困難であるため,教育課程審議会の答申を一例として挙げてみる。

 

小学校、中学校及び高等学校を通じて、言語の教育としての立場を重視し、国語に対する関心を高め国語を尊重する態度を育てるとともに、豊かな言語感覚を養い、互いの立場や考えを尊重して言葉で伝え合う能力を育成することに重点を置いて内容の改善を図る。(引用中の下線は論者による)

 

幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び

養護学校の教育課程の基準の改善について(答申)

4 各教科・科目等の内容 (2)小学校、中学校及び高等学校   i)国語

平成10年7月29日

教育課程審議会(http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/shingi/index.htm

 

 これを見る限りでは,国語科を「言語の教育」として捉えることは,諸処の意見もあろうが問題ないと思われる。上記の答申は最新のものであるが,これは今回の答申に限ったことではなく,例えば,北原(1985:3-6)では昭和51年12月の答申においても同様に取り上げられている「言語の教育としての立場」について論じている(2)

しかし,現実には,国語科教育という教科において,いわゆる言語教育を受けたという実感はないであろう。国語科における文法教育は,「言語の教育としての国語科」において重要な役割を果たすと思われるが,その実態は暗記中心の学習が文学などに対して付帯的に行われているに過ぎない。国語科教育において現代日本語を教えることは重視されていない,むしろ軽視の方向にあると考えられる。森山(1997:8-17)においては,現行の学校文法について構造や述語の意味のあり方など,様々な視点から問題点を指摘している。特に学校文法について,現在の学校文法の問題点は「形式への偏重」がもっとも大きく、それがそのまま「意味の軽視」につながっていることがもっとも大きな問題であるとしている。

 

(2)言語教育としての国語科

 それでは,言語の教育としての国語科とはいかなる形で存在し得るのであろうか。佐藤(2001)においては,「国語の歴史的指使命は終焉を迎えている」という指摘をし,教科名を「言語科」に改めるという大胆な提案を行っている。その内容をまとめると以下のようになる。

 

 1)「国語」の科目を「日本語(Japanese)」に改めるという動きがあるが,むしろ「言語(Language)」とすべきである。

 2)現在の国語教育の内容を「文学」と「言語」に再編し,文学教育は言語芸術の教育として位置づけ,言語教育を文学とは独自の内容として性格づける。

 3)「言語」という科目において,「国語」と「外国語」を統合することが将来的に望ましい。なぜなら,英語教育の内容の半分は日本語教育だからである。

 

ここまでの改革は現実的ではないという異論もあろうが,国語教育の研究者ではない「外からの意見」であり,大きな魅力を持っていると共に,「国語」という教科に対する学校教育経験者の多くが持つ疑問と通ずる部分があろう。

 森(印刷中)においては,「国語科文法教育の目標と定位」と題して,以下の三つを掲げた。

 

@ 国語科教育における現代日本語の教育は,言語コミュニケーション能力の向上を直接の目的とするのではなく,自らが言葉によって世界をどう捉えているかを振り返るためのメタ認知的要素を重視する。

A 現代日本語の文法教育が従来のように,古語文法の導入としてだけ用いられるのではなく,英語教育など第二言語の習得に有用な認知体系の強化を目指す。

B 伝統的な国語学に対し,世界の個別言語の一つとしての研究を意識した日本語学のように,国語科教育が学校教育の一分野としてだけでなく,あらゆる言語教育や言語理論のあり方を意識していく。

 

 @については,「母語をある程度不自由なく使いこなす」という目標は,いわゆる国語教育すなわち学校教育全体において行われるべきことであり,国語科教育に特化した目標でないということ。また,いわゆる「上手に日本語を使う訓練」のように,マナー教育に陥りがちな現在の国語科教育の問題をふまえている。言語についての深い洞察を行い,より敏感に言語の面白さや,その反面にある怖さを感じさせること,また,言語は道具であるのと同時に我々の行動や考え方にも逆に影響を及ぼしていることなどを考えさせることを目標とする。

 Aについては,「品詞分類」「活用」など,古語文法の導入のために形式的と言われる現在の学校文法の主なトピックが重要視されている現状をふまえている。小学校に英語教育の導入が進められようとしている国際化の波の中,6年間の義務教育においても英語教育が十分な成果を発揮できないのは,国語科教育における言語教育の不毛さが一つの原因を持つと考えられる。言語に対する鋭敏な感覚を養うことを,国語科文法教育において課すことが,言語に対する認知体系の促進し,第二言語のスムーズな習得に役立つようにするべきである。

 Bについては,国語科教育のグローバルスタンダード化を目指すためである。国語科教育において,言語教育という意識の低いことの原因を,先述のようにいくつか挙げたが,他にも「伝統の縛り」や「学校教育という保護された環境」なども挙げられる。近藤 (2001:20)では,「もちろん日本語話者が基礎的な教養として学習する文法(いわゆる学校文法)への応用が考えられるが,これは国語教育の世界の内部での問題が大きいので様々な問題が考えられるので,まずは保留しておくこととする」のように,日本語研究から見た国語教育の参入の難しさが語られている。こうした現状を打破するためには,「国語教育の特異性」を排除し,学際的な研究が積極的に進められていかなければならない。特に国語科文法教育に関しては,日本語学・国語学・言語学といった言語研究と,日本語教育・英語教育・各国の国語教育といった言語習得研究の双方との交流をさらに深めていくことが出来なければ,今後,大きな進展は望めないであろう。

 このように,現在の文法教育の意義を問い直すということは,すなわち国語科の意義を問い直すということになるのである。上述したように,文法教育の再編には,近接・周辺領域との積極的に関わっていくことが重要である。そうした意味では,本研究会のように文法教育という一つの目標に向かい,国語教育研究者だけではなく様々な分野の研究者が関われる場は,貴重であると言えよう。

 

2.インダクティブ・アプローチ

(1)文法教育の方法論―インダクティブ・アプローチ(Inductive Approach)

インダクティブ・アプローチ(3)とは,過去の言語理論研究・言語習得研究に既存の語ではなく,筆者が新たに設定した造語である。インダクティブ・アプローチに関する基礎的な理論は森(2001)を参照のこと。

母語教育(国語教育・第一言語習得)を第二言語習得などの言語教育と比較した場合,母語教育では学習者の既知的知識が圧倒的に多いため,インダクティブ(帰納的)な学習が効果的であると考える。

インダクティブ・アプローチにおいては,文法教育の方法論とそれを支える文法理論の二つが並行して展開される。これは,指導技術や指導法に偏りがちな国語科教育の現場と,学校文法の批判に留まりがちな言語研究からのアプローチの両方のバランスを考えてのことである。学校文法の諸問題に目をつぶり,方法論だけで国語科文法教育を改善させるということは不可能であるし,教育現場での現状を捉えずして学校文法のみをより良いものに改善していこうということも不可能であると思われる。インダクティブ・アプローチを含めたすべての国語科文法教育の研究は,方法論と文法理論の研究が両輪をなして進めていかなければならない。

 

(2)インダクティブ・アプローチの基本的な立場

 インダクティブ・アプローチの基本的な立場を大きく三つ捉えると以下のようになる。詳細については,森(2001)を参照のこと。

 

  文法(言葉のきまり)は,「人間の外にあるもの」として定まっているものではなく,人間の認知によって定まるものであると捉える。

  小学校における文法指導を言語教育の一環と捉え,学習者の言語発達を支援するものとして捉える。

  言語はやはり言語の運用を通して学んでいくものと捉える。

 

三つを総括して,さらに一言でインダクティブ・アプローチの立場を表すと,「言葉の不思議について話し合いながら考えよう。」というものである。

 

 

(3)インダクティブ・アプローチの方法

インダクティブ・アプローチにおいては,母語における無意識的な学習者の文法体系についての認識をメタ認知させることに目的がおかれる。Langacker(1988)によれば,文法は抽象化された概念体系(スキーマ)とそれぞれの言語表現の具体例を結ぶコネクションの総体的な集まり(使用に基づくモデル(Usage-Based Model))であるから,人間の「認知そのもの」と言える。それを客観視することにより,自らの認知体系を帰納的に学習する。すなわち,文法学習そのものを,文法という「人間の認知そのもの」をメタ的に認知する「メタ認知の学習」として位置づけるのである。

教師は学習者の「言語発達」を促す環境を整えるために,「学習支援」を行っていく。具体的には,学習者はディスカッションを繰り返しながら文法学習を進めていく。その際,議論が膠着状態に陥ったとき,教師が新たな文法事実を提示することによって,学習を新たな展開に導いていく。こうした手法により,文法用語を用いずに,学習者が無意識的に使っている自らの言語についてメタ認知する学習を可能とする。

インダクティブ・アプローチの方法は,文法という「人間の認知そのもの」について「学習する」ことそのものが文法学習であると捉える。こうした学習観の転換に関して加藤(1997)は次のように言及している。

 

 学習内容があってそれを理解することを中心とする学習から,言葉の決まりを発見していく過程こそが学習であるという発見学習への転換である。(中略)文法は,既に書かれたものとして用意された何らかの文法学説ではなく,日本語の話者が日本語を話すことができるという仕組みの中にある法則なのであって,自分の言葉や友人の言葉を観察して,そこに法則を発見していくことが,文法学習そのものなのである。

 

過程(process)を重視し,日常の会話に潜む言葉の法則の発見を文法学習の対象とすることの重要さについて考える必要がある。そのために,インダクティブ・アプローチは,従来の演繹(deductive)的学習観から帰納(inductive)的学習観への転換を全面に打ち出し,さらに言語研究による理論を裏付けとして国語科文法教育の方法の再構築を試みるのである。

 

(4)インダクティブ・アプローチにおける六つの提案

インダクティブ・アプローチという方法論を可能にするために,次のような六つ提案を行う。前半三つは,学習者を中心とした視点であり,後半三つは,教師の学習支援の方法を中心とした視点である。詳細は,森(2000,2001)を参照のこと。

 

〔1〕  学習者は自らの言語認識を題材として,言語学習を進める。

〔2〕  学習者は自らの言語認識を学級集団というコミュニケーションの場において,ディスカッションしながら言語に対する認識を深める。

〔3〕  学習者は自らの言語認識をメタ認知し,意識化することを目指す。

〔4〕  教師は学習者を支援する役割に回り,学習の方向性の軌道修正を行う。

〔5〕  教師は学習者の学習における認知的プロセスを重視し,形成的な評価を行う。

〔6〕  教師は学習者の言語認識を言語運用において浸透させていくために,循環的な言語発達の場を用意する。

 

(5)インダクティブ・アプローチというモデル

インダクティブ・アプローチは決して特別な方法論でない。インダクティブ・アプローチは文法指導の一つのモデルとして提示されるに過ぎず,むしろ現場教師が経験則的に作り上げる指導法に理論的背景を与えるものである。

「言語の運用を通じて」言語の発達が行われるという仮説は,Lakoff(1987)の述べる経験基盤主義に基づくものである。言語能力は認知能力との密接な関係の中で発達していくと考えるのである。

経験基盤主義を始めとする認知言語学の理念をまとめると,「言語を含む人間の認知は,心身の経験(知識)を基盤に,環境世界との相互作用によって構成される」となる。この場合の環境世界とは,自然環境と社会・文化的環境のいずれをも含む。

今後の方向性として,言語獲得研究との接点から,学習者がどのようなスキーマから順に習得していくかを明らかにし,発達段階に応じた言語教育の在り方を求めることも考えられる。それにより,就学以前にほぼ形作られる言語能力を小学校から高等学校まで,認知形成段階に沿って,支援するカリキュラムの構築が可能となろう。

 

3.学校文法の拡張的解釈

(1)文法教育の対象となる「文法」とは何か

現在の国語教育においては,文法とは暗記中心の知識習得型学習によって得られる「外にあるもの」となっていると言える。矢澤(1998:19)では、文法と文法論という用語の区別を次のように規定している。

 

  これまで、ただ「文法」と言ってきましたが、「文法」には二つの意味があります。一つは、それぞれの言語に内在する、文をつくるきまりを表します。もう一つは、ある一定の立場からそれを解釈し記述したものを表します。前者と区別するために、後者を「文法論」と呼ぶことがあります。「橋本文法」だとか「渡辺文法」だとか、人名を添える「文法」は文法論です。学校文法も文法論です。

 

インダクティブ・アプローチにおいては,文法は独立して学習者の「外にあるもの」ではない,矢澤(ibid)の言う「言語に内在する、文をつくるきまり」にあたる。文法は絶対的な指標ではなく,人間主体の認知を反映させて帰納的に形成されるものであると考えなければならない。また,人間主体の認知に重要な役割を果たすと言われる比喩(metaphor)は,従来の国語科教育では,文学的修辞法の一つとして扱われることが多かったが,インダクティブ・アプローチにおいては,言語に対する学習として対象に含むこととなる。

 

(2)文法論の改善に向けて

文法論としての学校文法の「完全なる」改編は,教育政策的問題(教科書検定など)や,学校教育現場の浸透度などから非常に困難である。学校文法の拡張とは,「形式に偏重」から「意味に着目」し足らざるところを補う形で進める。

現行の学校文法は,用語などにおいても多々問題はあるが,例えば「動詞」「名詞」「形容詞」「副詞」などの主要な品詞の名称と概念は,現在の日本語学とそれほどの違いはない。要は,「学校文法のあら探し」ではなく,「焦点をどこに向けるか」という方法をもって使える部分を積極的に認め,拡張という方向を持って改善に向かおうという考えである。

 

(3)学校文法の拡張的解釈の意義

学校文法の拡張的解釈は,インダクティブ・アプローチを支えるものである。学校文法の拡張的解釈は,教師が新たな文法事実を提示できるような「文法学習の手引き」を作成するための基礎作業となる。学校文法の用語にできるかぎり準じながらも,学校文法において言及されていない文法現象を記述するという点において,学校文法の拡張的解釈とという立場をとる。

矢澤(1998:20)では,現在の学校文法は「(文法の)内包より外延を重視する網羅主義にとらわれている」との指摘がある。その指摘どおり,文法教育は言葉を通じて自らの認知・認識のあり方を捉え直すことが重要であり,網羅主義に陥った暗記学習中心のカリキュラムは避けなければならない。

 

(4)インダクティブ・アプローチに基づく視点のシフト

 それでは,学校文法の拡張的解釈を具体的にどのように進めて行くのか。先述してきたように,文法教育は,既に話すことの出来る日本語の形式操作を学ぶのではなく,言語という鏡を通して,自らの認知体系を振り返るきっかけを与えることが重要と考える。すなわち,結果重視の演繹(deductive)的学習から,過程重視の帰納(inductive)的学習への転換が不可欠である。このように考えれば,学校文法の拡張的解釈の向かうべき方向は自ずと見えてこよう。

例えば,文法体系を考える上で最も難解であり,かつ現在の文法指導の大半を占める「品詞分類」と「活用」に関しての扱いは大きく変わる。日本語母語話者たる学習者は,「品詞分類」「活用」を知らずとも,自然な日本語の文を作り得るし,作られた文に対しての容認判定も容易に行うことができる(4)。すなわち,「使える言語の詳細なメカニズムをわざわざ教える必要はない」ということになる。これが,例えば英語のような第二言語習得であれば,

 

(1)      The airplane landed safely.

(2)      The airplane made a safe landing.

 

下線部の「land(vi)」と「landing(n)」や,波線部の「safely(ad)」と「safe(a)」のような品詞分類がわかっていなければ,これらの英作は困難であるため,ある程度演繹的にしなければならないが,日本語のように第一言語習得の場合は,帰納的に取り扱うことができるため,必ずしも「品詞分類」は文法教育に必須ではなくなる(もちろん,帰納的に学ぶ中である程度の区別は必要であるが)。

また,日本語母語話者たる学習者は「促音便は五段活用連用形に生ずる」ことについて教えずとも,「走っている」を「走りている」と勘違いしない。それよりも,「走っている」は「走る」とどのように異なるかを振り返ることで,自らの認知のあり方について気づくことが求められると言えよう。そういった意味では,杉本(1986:39)の指摘するように「品詞の別を超えた現象」に目を向けることが重要である。森山(2001:62-63)でも指摘されているように,「表現の意味」を重視し,アスペクト,テンス,ヴォイス,モダリティといった文法カテゴリという観点から考察されるべきである。特に,仁田(2000:20-21)も指摘するように無標の形式の持つ意味に注目し,有標形式との比較から文法を見直すことは不可欠である。

 

(5)学校文法の拡張的解釈の具体的方法に向けて

現時点において大きく二種類の方向からの学校文法の拡張的解釈の方法が考えられる。一つは,文法的に中心的な内容(必ずしも学校文法でも中心的であるとは限らないが)を意味的な観点を導入し,再構築することである。もちろん,文法カテゴリも観点の一つであり,戦後の日本語学・言語学の見地を取り入れまとめていく。

もう一つは,言語の周辺的現象を積極的に取り上げる方法である。定延(2000:7-10)においては,こうした考えを仮に「周辺主義」と呼んでいる。定延の述べる周辺主義の重要性を要約すれば,「周辺的な現象を研究することで中心的な現象に対する新たな見地が得られる」となろう。

もちろん,こうした目的もあるが,学校文法の拡張的解釈において周辺主義を採用する重要なポイントは,「現行の学校文法及び検定教科書との兼ね合い」にある。学校文法において中心的に扱われている現象を説明するには,どうしても文節や品詞論に触れなければならない現実がある。しかし,学校文法において「周辺的」とされている現象においては,それらの現実に縛られることなく,各々の教師の個性を活かした指導も可能となる。

 言語の周辺現象は,今までの文法教育において「文法」とされていた領域にとどまらない。先に取り上げたようにメタファー的な言語表現もその射程になろう。例えば,「目を配る」という言語表現におけるヲ格は,一般的な国語力(言語能力)を持つものであれば,「注意を払う」といった語義を読みとることが可能であり,文字通り「目」を「配る」ことは不可能である。「自らが言葉によって世界をどう捉えているかを振り返るためのメタ認知的要素を重視する」というインダクティブ・アプローチにおいては,こうしたヲ格を「当たり前」と捨て置くことはできない。

 すなわち,「目を配る」という表現は,「目」という部分によって「視線」をメトニミー的に表現し,「視線を方々に送る」という空間的な構造を,概念的な構造に写像することによって,「周囲に注意を払う」という意味を生み出していると考えるわけである。厳密には,もう少し詳細に分析する必要があろうが,国語科文法教育において,こうした語用論的な意味を考えることは,「自らが言葉によって世界をどう捉えているかを振り返る」ことに大きな役割を果たそう。「目はどうして配れないか」という,小学生でも興味深く取り組めるテーマから,言語の意味世界の普遍性を探るためのきっかけを与えることが可能なのである。

 語彙論の領域にも,魅力的なテーマはたくさんあろう。卑近な例を挙げれば,「カップスープ」と「コーンスープ」の語彙構造などはどうだろう。前者は「カップ」に入った「スープ」だが,後者は「スープ」に「コーン」が入っているわけで,あべこべである。英語ならば,「a cup of soup」と「soup with corn」に形式が分かたれるわけであり,これもまた言語表現に関わる不思議の一つであると言えよう。

 

 

4.まとめにかえて−今後の展望

 学校文法の問題点が「形式への偏重と意味の軽視」であることは既に述べたが,これは学習内容に対してのみならず,学習指導法においても大きな影響を持っている。例えば,小六下の教科書においては,「次の( )の中に,文の骨組みを作ることばを入れて,いろいろな文を作ろう」という発問により,次のような問題が挙げられている(5)

 

  わたし( )弟( )本( )読んだ。

  田中さん( )林さん( )伝えた。

  ぼく( )あなた( )山田さん( )話そう。

 

例えば,第二問目においては「が,に」「は,に」「から,に」「も,に」「が,へ」「は,へ」「から,へ」「も,へ」などが想定される。問題は,こうした答えを作った子どもたちへの対応である。子どもたちは柔軟な言語感覚で,ここで挙げた回答以外も作り上げよう。これに対し,「そうね。『田中さんから』でもいいですけど,この場合は『田中さんが』ですね」のように,(特に文法的根拠のない)正答・誤答で対応することは,子どもたちの柔軟な言語感覚を圧迫することになりかねず,言語に対する鋭敏な感覚を摘み取ってしまいかねない。また,それぞれの意味の違いについて,考えることなく通り過ぎてしまえば,一過的なドリル学習以外の何者でもない。

形式的な操作に対し,正答・誤答によって対応する指導は,母語話者である子どもたちの言語的人権を著しく軽視したものと言えよう。そもそも,発話意図無しに言語を使用させるということは,言語コミュニケーションを無視した形骸的言語教育を招きかねない。こうした現状を打破するためには,意味を重視した指導はもちろん,文の指導にとどまらず,文脈推移なども指導の範疇にすることが不可欠である。「言語について考える」態度を育成する国語科文法教育を真剣に考えなければならない時期に来ていると言えよう。

 こうした様々な問題を織り込みつつ,学校文法の拡張的解釈を,さらにはインダクティブ・アプローチによる言語教育としての国語科文法教育の改善を追究していきたい。

 

【注】

(1) 「国語科教育」と「国語教育」は混同して使われる場合も多いが,「国語科教育」は「教科としての国語科で行われる教育」であり,「国語教育」は「教科を問わず,学校教育全体で行われる母語の教育」というのが教科教育に携わる研究者の共通した見解となっている。

(2) 北原(1985)においては,学校文法が橋本文法から脱皮しなければならないことを述べている。しかし,橋本文法にとってかわる学校文法が具体的に提示されないこともまた指摘しており,新たな学校文法の構築を呼びかけている。また,北原(ibid)は仁田(1997)の「系列的視点」に通ずる,シンタグマティック(syntagmatic)とパラディグマティック(paradigmatic)の二面を挙げており,前者を構文論,後者を語彙論と関係づけて考察している。

(3) インダクティブ・アプローチは,現在の所,小学校を中心に構想されているが,中学・高校,もしくは生涯学習としての日本語の教育にも適用可能と考えている。さらには今後,各国の国語教育など,他言語の第一言語習得にも共通する部分を見いだすことを目標としている。

(4) ただし,今後の国語科教育が日本語の言語教育として機能していくには,非日本語母語話者たる学習者の問題も考えていかねばならないが,この問題はここでは議論しないこととする。

(5) 平成7年度版,東京書籍1995『新編 新しい国語』東京書籍.

 

【参考文献】

加藤久雄1997「品詞論をどう見直すか」『日本語学』第16巻・第12号,pp.8-17.

北原保雄1985「言語教育のあり方」『応用言語学講座 第1巻 日本語の教育』明治書院.

近藤泰弘2001「記述文法の方向性−とりたて助詞の体系を例として」『國文學 解釈と教材の研究』第46巻・第2号,pp.20-29.

定延利之2000『認知言語論』大修館書店.

佐藤 学2001「『国語』の教育から『言語』の教育への提言」第100回全国大学国語教育学会 シンポジウム「国語教育の過去・現在・未来」報告資料.

杉本 武1986「学校文法におけるアスペクト・テンスの記述について」『都大論究』23号,pp33-39.

仁田義雄1997『日本語文法研究序説』くろしお出版.

―――― 2000「文法 文法カテゴリを中心に」中村明編『現代日本語必携 別冊國文学』NO.53,pp.17-23.

森 篤嗣2000「文法指導におけるインダクティブ・アプローチ」『国語科教育研究』第99回発表要旨集,全国大学国語教育学会,pp.124-127.

――――2001「小学校国語科教育におけるインダクティブ・アプローチ導入の基礎理論」『教育実践学論集』第二集,兵庫教育大学連合大学院,pp.63-75.

――――(印刷中)「第一言語習得におけるインダクティブ・アプローチ」『研究大会報告集』vol.3 大阪外国語大学言語社会学会.

森山卓郎 1997「『形重視』から『意味重視』の文法教育へ−21世紀の学校文法へむけて」『日本語学』第16巻・第12号,pp.8-17.

―――― 2001「文法と教育−『よう(だ)』の文法的探索を例にしつつ」『國文学 解釈と教材の研究』第46巻・第2号,pp.58-64.

矢澤真人1998「日本語の表現と文法」『月刊国語教育』第17巻・第11号(1月号),pp.18-21.

Lakoff,G. 1987 Women, Fire and Dangerous Things. Chicago:The University of Chicago Press.[池上嘉彦・河上誓作(他)訳1993『認知意味論』紀伊国屋書店.]

Langacker,R.W. 1988 “A usage-based model”. In B.Rudzka-Ostyn ed., Topics in Cognitive Linguistics. John Benjamins, pp.127-161.