〈登場人物〉の文化史:シェイクスピア批評の経緯

加藤行夫

 たとえばハムレットは、結局のところ、何なのか。劇が始まって、舞台に登場して、そして劇が終わるまでのあいだ観客の前に存在するこれら〈登場人物〉たちを、そもそもどのようにとらえたらよいのか。

 『ハムレット』劇を見るということは、舞台上のハムレット役者(たち)の演技を見ることにほかならない。そこにあるのは、役者の肉体にすぎない、けれども観客が見ているのは、ハムレット役者以外の、それを越えた何かであるはずだ。では、われわれは何を見ているのか、つまり、『ハムレット』冒頭における衛兵の誰何にならって問えば、「そこにいるのはだれ」("Who's there?")なのか。

 1960年代・70年代に書かれたシェイクスピア批評史の解説書には、ひとつの共通の了解事項があり、それは、19世紀までのシェイクスピア批評は舞台の上の登場人物をあたかも実在の人間であるかのように扱った、しかしこの誤謬は今世紀に入って乗り越えられ、シェイクスピア劇をあくまで劇として見直すようになった、というものだろう。ここで批判の対象となっている19世紀までの方法は、俗に「性格批評」character criticism と言われ、劇は現実生活とは異なる、劇は劇として読まなければ、という素朴な確信のもとに、「性格論」の蔑称とともに排斥されてきた。しかし、いまあらためて問えば、劇は現実生活とどう異なるのか、劇を劇として読む、とはどういうことなのか。

 ともあれひとまず、これまでシェイクスピア批評史のなかで「性格批評」が与えられてきた位置を確認しておこう。たとえば、Frank Kermode は、彼が編集した批評のアンソロジー Four Centuries of Shakespeare Criticism (1965) の序文で A. C. Bradley を槍玉に挙げて、こう述べている−−

 「彼の欠点は良く知られています。彼は舞台芸術としての劇をほとんど無視して、心理学に対する興味をほしいままにしたのです。しばしば登場人物 characters をテキストから切り放し、あたかも生きた人間であるかのように扱い、その隠された生涯に思いを巡らせたのです。」

 Bradley の Shakespearean Criticim が出たのは 1904年、この20世紀初頭、19世紀批評の最後のなごりとして Bradley がいて(その前年に同じような批判の対象にされる William Hazlitt がシェイクスピアの character 論を出している)、しかし、そのすぐあとに、Kermode の表現によれば、劇場を考慮に入れた Bradely の改訂版が Granville Barker によってなされ、心理主義からの是正は E. E. Stoll が行ない、Wilson Knight や L. C. Knights は詩的解釈によって軌道を修正したということになる。説明のためのレトリックはさまざまでも、どのような批評家をどのように並べるかに至るまで、この種の解説書はどれも打ち合わせたように似通っている。Kermode の序文には、その末尾に、さらに Kenneth Muir の "Fifty Years of Shakespearian Criticism" (Shakespeare Survey 4, 1951) が参考文献として挙げられている。つまりおそらく、文学史とか批評史を書くということは、かほどさように独自の見解を出すのが難しく、それだけに前説を踏襲しておくのが最も楽で、したがっていったん構築された支配的なイデオロギーの存続を極めて許しやすい領域なのだ、ということが言えるだろう。

 本稿の意図は、批評史の洗いなおしの試みでもなければ、性格批評の復権の主張でもない、ただ、文学の歴史や批評の歴史が、個々の作品解釈という現実に近づいて見るほどに、単一の総括は難しく、とくにこの〈登場人物〉character という概念に関して、問題はほとんど解決していないということを少なくとも喚起しておきたいのだ。

 ちなみに、現在、シェイクスピア批評史の書かれ方はいくぶん変わってきているように思われる。批評自体の動向が1980年代に入って従来の批評と断絶的なまでに急展開を遂げ、それゆえか、過去の批評史を現在に発展する前段階という単純な一方向の流れとして決定することはしない。規範文法から記述文法へ、という言語学のたどった歴史と同じく、過去のものについては、正誤の判断を加えずに、ひたすら集めたものを列挙しておく、という傾向があるようにも思われる(1984年から刊行が始まり現在も続刊中の Laurie Harris ら編集による Shakespeare Criticism が好例だろう)。

 規範文法の時代に戻って文学用語辞典の復習をすれば、批判の的にされた「性格批評」とは、19世紀のいわゆるロマン主義と軌を一にするもので、「批評の対象をありのままに見ず、また批評の何らかの基準に照らしても見ず、その対象がかき起こす主観的な印象をたよりに批評的な言辞を述べる」(福原麟太郎・吉田正俊編『文学要語辞典』1978)、つまり、登場人物をテキストから一人歩きさせて勝手なことを言う、として、たとえば Coleridge などを指して T. S. Eliot とその一派が批判的に使ったことばということになる(The Sacred Wood, 1920)。方法論上の深刻な欠陥とされるのは、テキストに書かれていないことを想像力で埋めるという点で、それを揶揄した有名な論文に、L. C. Knights の「マクベス夫人に子供は何人いたか」("How many children does Lady Macbeth have?", Explorations 所収)がある。あくまで程度問題として言えば、シェイクスピア批評におけるロマン主義者たちの逸脱ぶりは、ときとして弁護できる範囲を越えている。しかし、演劇の本質的な議論として、劇の登場人物の「性格」について考えることがどのように回避できるのか、回避すべきなのか、性急な結論を下すことは危険だろう。

 一方、身の回りで行なわれている文学作品の解釈に目を向けると、あれほど否定され、すでに乗り越えられたはずの性格批評が、いまに至るまで決して根絶やしになっていない、どころか、劇の見方のなかにむしろ強く根づいているという事実に気づかされる。たとえば『ハムレット』について述べられた次の言辞−−

 「復讐しようと決心する。そうすると、復讐する手段はといえば、当時とすれば相手をまさに自分の手で殺すということ、自分の手で相手の血を流して殺すということである。ところが、自分が相手の血を流して殺すというような行為は、ハムレットという青年の{性格}にとって、最も願わしくない行為であった。」(木下順二『劇的ということ』NHK教育テレビ「人間大学」1994)

この「性格」ということばには傍点を付して注意を向けておく必要があるが、論者にとっては、血を見るのがいやなハムレットという人物像が最初から措定されてしまっている。妥当性のさまざまなレヴェルで性格批評があるとしても、これは典型的な悪しき性格論の部類に属するだろう。この論調を、彼は自作の『夕鶴』になぞらえて続ける−−

「切実な願望があって、それをどうしても達成したいと思わないではいられない{キャラクター}がいて、達成への道を一所懸命歩いて行けば行くほど、その願望(中略)から遠ざかって行くほかないという矛盾」−−。

再び「キャラクター」ということばに注目すべきだが、このダブル・バインドの「矛盾」こそが、論者にとっては、劇を「劇的」にするための「根本的な理由の一つ」であるということになるらしい。要するに、初めに character ありきで、劇を劇たらしめているのは、「登場人物」 character の「性格」character だという次第なのだ。みずからが劇作家なればこそ、限りなき「人間」への興味が先行するのか、いまだ決して乗り越えられてはいない劇の見方が、ここに厳然と息づいていることを思い知らされる。

 だが、文学が、演劇が、現代、いわゆる「人間」を描くものでは必ずしもなくなっているということは確認しておいてよい。正しくは、「人間」という概念の変容が迫られていると言うべきか、重要なことは、自律的・内在的な「人間」などどこにもいないということにだれもが気づき始めてきた、という点だ。それを例証するには、たとえば Samuel Beckett が、とでも言えば決定的だが、ここでは、1962年に初演された Edward Albee の Who's Afraid of Virginia Woolf? と、1966年に上演されたその映画版が、「人間」という概念をめぐって興味深いすれ違いを起こしている事例を挙げておけば十分だろう。

 New England の大学構内の家、歴史学の教授とその妻、および同じ大学の生物学の新任教官とその妻とが費やす夜更けから夜明けまでの数時間。結婚して20年になる教授と妻は(おそらくいつものように)ささいなことでののしりあい、後に招待客として訪れる新任教官とその妻を交えてサディスティックなまでのことばの応酬を展開させる。すでに酔っている教授夫妻に客の酩酊が加わり、同じことばの繰り返し、意味のない話のたいそうな誇張、コミカルかつグロテスクな事態等々から、リアリズムの世界内で見れば、ふたりは明らかに精神に異常をきたしている、としか考えられない。しかし、どうやらこの中年の夫婦が語らず避けていたのは(不和の原因もそこにあるようだ)、すでに死んでいる彼らの息子のことだとわかってくる。明日は息子の誕生日、車に乗っていた彼はハリネズミをよけて(何たる日常性)木に激突したらしい(このあたり、事実が何であるかはどうもはっきりしない。ふたりは息子の目の色についてさえ意見が分かれているのだ)。

 この劇は、息子の死をあくまで背後に潜む触媒として、むしろ破綻することばと崩壊する関係性の露呈にこそ真意がある。「真実なのか幻想なのか?」「真実はすべて相対的なもの」と教授がつぶやく不確実さのなかで、そして、自虐、暴力、酩酊の渦のなかで、通常の意味での家庭劇を破壊し、破壊したあとにあらわにされてくる男と女の、つまり、破壊に常にさらされている、その限りでしかありえない「人間」の現実こそが、この不条理劇の意味するものであったはずだ。

 ところが、映画(Elizabeth Taylor, Richard Burton 主演、Mike Nichols 監督)では、教授夫人が息子の死にあらためて直面させられるあたりから、ハリウッド流の典型的な涙なみだのメロドラマになってしまっている。これまでのすべての不可思議な事態や関係の謎解きとして、耐えていた息子の死への悲しみが明かされるという次第で、悲嘆の涙にかきくれる教授夫人のクロースアップと大仰なバック・ミュージック、そして、映画の終わったあとまでも、わざわざ情感あふれる音楽を長々と流す念の入れよう。

 この映画に描かれてしまったのは、作者の意図にまったく反した、古典的な、まろやかな「人間」なのだ。そういった「人間」像を拒否するために Albee はこの劇を書いたはずなのに。それにしても、ロマン主義的な文学観にとりこまれた登場人物たちは、何ゆえかくも涙を流しやすいのか。泣いたり嘆いたり、その感情をあらわにすることが、すなわち「人間」であることの証左だと言わんばかり。一方、「きょうママが死んだ」と語り始める異邦人ムルソーは、太陽のせいで人を殺し、「母の死の翌日、喜劇映画を見て笑い興じていた」として死刑の判決を下される。涙を流さない彼は「人間」ではない、ということが最も許しがたい罪科だった。そして、それを書くことで、カミュは伝統的な「人間」を描く文学と決別したのだった。

 しかし、現実はシェイクスピア批評史の教科書通りではなく、人間崇拝の文学風土はイギリスやアメリカにあっても長く変わらなかったように思われる。批評史によれば、19世紀のロマン主義的な性格批評は、ほぼ1940年代には、歴史主義的研究、イメジャリー研究、詩的解釈など新しい世代の批評に取って替えられたことになっている。ところが、今世紀なかばに書かれた膨大な数のシェイクスピア研究書の多くが、いかに迷いのない性格批評であることか。強力なイデオローグの作った批評史の影に埋もれているその声なき声のひとつに耳を傾けると、たとえば John Hankins の The Character of Hamlet (1941) では、その基本的な読みの姿勢として、はっきりと述べられている−−「読者に与えられる全体的な印象 total impression を重視しなければならない」と。これはまさしくロマン主義宣言そのものにほかならない。実際、彼は本文をこう続ける−−

 「私は Stoll 教授の嫌う〈実生活的〉解釈 real life interpretation という罪を犯しているのかもしれない。[しかし]私には、彼の提唱する生活と劇場の切り放しという方法が有効であるとはどうしても思えない。」

 この正直な本音は、むしろ健やかな好感を抱かせるほどだ。また、冨原芳彰氏は、「文学的性格論とハムレット」(『新文学風景』5)において、ハムレットという登場人物には性格論的アプローチが必然である、という前提で性格批評の再考をしている。氏は、性格論たたきとなると決まって筆頭にあげられる Morice Morgann のフォールスタッフ論と、ハムレットの性格論とは、「意味あいが非常に違う」とただし書きをおいた上で(Morgann のフォールスタッフ論は、劇を説明するためになされているものではなく、モラリスト流「性格論」の長編といったものである、と氏は説明している)、次のように論じる−−

 「文学的性格論というのは、作中人物が作品で見せる言動のすべてを統一的に説明しうる原理をその人物の内部に見出すことをその枢要とするものである。すなわち、作中人物の言動がどんなに複雑であり、あるいは矛盾に満ちているかに見えても、その背後にはかならずひとつの人格的統一が存在しなければならないという想定がその根底にある。」  氏自身の性格論者たるこの明快なマニフェスト(小声で告白すれば、この立場が Morgann のものとどう異なるのか筆者には理解できない)のあと、さらにこう続ける−−

 「作中人物の性格というものは、要するに、その人物の作中でのすべてを指標として、その背後に読者が推定するものである。」

 これはまさしく Hankins の言う "total impression of the reader" と同質のものだろう。さらに−−

 「作中人物についての性格論は、その人物が現実の人間ではなく、芸術的造形の一種であることが忘れられると妙なものになることも事実であるが、反面、その人物を現実の人間と見紛うばかりにその人物に真実味と現実感とを帯びさせるこのに成功していない性格論もまた性格論としては魅力に欠けることも事実である。性格論というのはそれ自身が一種の芸術かもしれない。」

 そして、最後にこう締めくくる−−

 「文学的性格論は、文学批評と呼ばれる諸活動の中で、もっとも人生論的色彩の濃いものである。(中略) 文学的性格論は文学に人生的意味を求め、それを人生論的に受けとめる人々によってもっともよく書かれ、もっともよく好まれる。」

 ちなみに、この論文が掲載された『新文学風景』という同人誌の同じ号に、荒木正純氏の論文も掲載されている。「〈物語的読み〉から〈劇的読み〉へ、そして〈記号の戯れ〉へ」という副題を付したそれは、deconstructive な読みをラディカルに提唱したもので、1982年代というこの年あたり、筑波にも新旧世代の出会いと別れがあったようだ。

 イギリス本国でも、1949年のTLS(Times Literary Supplement)に掲載された書評が、当時の性格論受容の実態を雄弁に語っている。George Gordon というオックスフォード大学の英文科主任教授が、その年の Morrice Morgann のフォールスタッフ論の再版を喜んでいるのだ。1777年の刊行以来、常に話題にされながら、意外ときちんと読まれていない、と彼は Morgann 再読の意義を熱っぽく訴える(その書評は、彼の論集 The Lives of Authors の巻頭に収められているが、「作家の人生」というこのタイトル自体がすでに Gordon の立場を明瞭に象徴している)。このように、性格批評の終焉を告げられて50年が経過しても、事態はさして変わっていなかったというのが現実だろう。

 ところで、われわれの議論のなかで、そもそも "character" という概念がどのような意味で使われているのか、あらためて考えてみなければならない。まず、character が、ひとつの文学ジャンルに与えられたことばであることを確認しておく必要がある。人間のさまざまなタイプを機知に富んだ言い回しで描く伝統があった。これは、古代ギリシア、テオフラストスに始まるもので、植物学者でもあった彼は、人間を草花のように分類し類型化した。この文学形式は、17世紀初期のイギリスでもてはやされ、Joseph Hall, Sir Thomas Overbury, Samuel Butler などが書いた散文集がさらに後の時代まで影響を及ぼすこととなる。たとえば Hall の Characters of Virtues and Vices では、First Book の Virtues に "wise man", "honest man" など 10種、The Second book の Vices には "Hypocrite" をはじめ 15種の characters がおもしろおかしく描かれている。Samuel Butler (Erewhon を書いた19世紀の Butler ではなく)の Characters には、"Banker", "Officer" など職業名も加わって、計200種以上のタイプが列挙される。それは、J. B. Priestley の The English Comic Characters (1925) などのように、現代まで引き継がれた文学趣味のひとつになっている。

 かたや、演劇や小説の物語のなかで character と言われるとき、せりふとアクションによって何らかの人格的実体を想定させる〈登場人物〉の意味になる。けれども、近代劇や小説における立体的な、いわゆる生きた登場人物を考えるまえに、もともとこの character という演劇用語が何を指していたか知っておかなければならない。

 あらためて言うまでもなく、この概念を最初に演劇用語として使ったのは、アリストテレスで、その『詩学』第6章には、悲劇を構成する要素として、英語で言えば、plot, character, thought, diction, music, spectacle の6つが挙げられている(character に当たるギリシア語は「エートス」で、これは settled character の意味)。しかし、アリストテレスの言う character は、人間の内部にひそむ何らかの心理的実体を想定する今日的 character ではなく、単に人格の類型を指し、外在的な行為をその前提としているものだった−−「character とは、行為する人間の資質がそれによって決まるとわれわれが言うところのものである。」 それは、E. M. Forster が小説論で使った用語にあえてなぞらえれば、round character ではなく flat character(あるいは type)ということになるだろう。Character 文学の祖、テオフラストスはアリストテレスのほぼ同時代人だったことを思い起こしておこう。そもそもギリシア語の character は、stamp, impress という動詞をもとにした、「外から押しつけられた印・型」を意味する。ついでに確認しておけば、アリストテレスは、この character をあまり重視していず、彼が劇の「たましい」とみなした plot さえうまく作られれば、character はあとからついてくると考えていた。

 つまり、テオフラストス、アリストテレスの系譜から行けば、演劇の長い歴史の大部分において、character は人物の「類型」を意味していたと断定して構わないだろう。この流れはエリザベス朝・ジェイムズ朝に当然引き継がれて、シェイクスピアやベン・ジョンソンの Comedy of Humours に、そして本質的要素としては Restoration の Comedy of Manners にまで続いて行く。

 もっとも、ことはさほど簡単ではないのは、現代、「人間」の概念が変わったと同じように、このシェイクスピアの時代、やはり character の概念も複雑に内面化し、多様化しつつあった。ベン・ジョンソンの Every Man in His Humour などは、本来 humours が4種類ということもあり、比較的単純な人間類型化の喜劇であると言える。しかし、人間に対する興味は、もはや類型としての characters だけでなく、内面にひそむ近代的な性格としての characters にも向かい始めていた。

 −−ロンドンの国立肖像画館 National Portrait Gallery には、約8,000点の作品が納められている。肖像画だけの美術館は世界でもあまり例を見ず、「イギリス人の国民的心情の結晶」と言われる(出口保夫『夏目漱石とロンドンを歩く』1993)。1901年に夏目漱石がここを訪れたことは、彼の日記に記されているが、のちに『文学評論』で漱石はこう書いている−−

 「其処でこの肖像画と云う者が何故こんなに発達したらうと云う問題になる。(中略)一体、画で肖像画と称するのは文学に於て何に相当するだろう。写実小説でもあるまい。(是は画の方で云ふとホガースの領分である。)歴史的ロマンスでも有まい。(是は歴史画に当たる。)古代の神話などを題目とした詩でもなかろう。(是はクラシカルな題目の絵画に相当する。)すると・・・肖像画は文学で云ふと何に当たるだらうか。余の考では所謂性格描写に匹敵するものではあるまいかと思ふ。」(『文学評論』)

 肖像画を「性格描写」と喝破した漱石は、人間の内面としての character に対するイギリス人の関心を言い当てたことになるだろう。実際、8,000という数はもはや類型ではない、多様性、個別性そのものなのだ。

 ところで、ここに興味深い資料がある。Thomas Berger らが編集した An Index of Characters in English Printed Drama to the Restoration という、イギリス初期の戯曲に登場する人物をひたすら網羅的に集めただけのリストで、たとえば Ghost がエリザベス朝のどの劇に何回出てくるかということがひとめでわかるようになっている。ここに列挙された登場人物は、全部で 約8,000人、8,000種類。8,000という数字がいかに多いか、大ざっぱに計算してみると、チューダー朝の現存する戯曲が1、000弱で、仮に現存するものしか存在しなかったと想定して、8,000を1,000で割ると8、つまりひとつの劇が8人の異なる登場人物で演じられたとすると(実際はもっと多いが、8人でも一応上演可能な人数と言える)、同じ人物が2度と登場しないで1,000の劇が上演されたことになる、それほど多種多様な登場人物がすでに出現していたのだ。

 ところで、登場人物はいつから〈登場人物〉として意識化されるようになったのか。1623年に刊行された最初のシェイクスピア全集、The First Folio を開くと、本文冒頭の見開きの右側一面にシェイクスピアの肖像画が見え、その左、つまりシェイクスピアの顔と向かい合う位置に10行の詩が書かれている。B.I.という署名からベン・ジョンソンによるものとされているが、読者に向けられたその内容は−−

 汝がここに見るこの「人物」(Figure)は

 Gentle Shakespeare を表したもの

 彫刻師は自然と闘って

 本物にまさるものを作ろうとした

 ・・・

 しかし力不足でかなわなかったので、

 読者よ、この絵を見ず

 作品を読みたまえ

 

 これを筆頭にいくつかの序文が掲載されているが、その最後に Hugh Holland という人がソネット形式で、こう述べている−−

 グローブ座の天地を震撼させた

 妙なる芝居の作り手、シェイクスピアは死んだ

 ・・・

 その生は尽きるとも、

 詩行の生は尽きることなし

 これらの文章を読むと、シェイクスピア劇の全集刊行は、内実としてシェイクスピア個人の追悼儀式でもあったことがわかる。そして、そこで述べられていることをすべてまとめると、わずか2つの声に収斂する−−「偉大なシェイクスピアは死んだ」「さあ、作品を読もう」、と。

 単純な図式化だが、シェイクスピア劇は、劇作家シェイクスピアの死によって、初めて独立した作品として読まれるようになり、従って、その登場人物は、人間シェイクスピアの退場と交替して、以後批評の舞台に登場したのだ、と言ってさしつかえないだろう。シェイクスピア存命中は、もとより資料が稀少ということもあってか、シェイクスピアという新進劇作家に対する揶揄や追従のみで、作品そのものについての、まして登場人物についての言及がほとんどなされていなかった。

 ともあれ、〈登場人物〉の2つの局面に関して議論を戻せば、この時代の劇を読むとき、登場人物の解釈について、ひとまず両者とも同時に視野に入れておく必要がある。ひとつは、類型化の伝統のなかで、そしてもうひとつは、内面化された個性として。ある特定の人物の解釈に際して、この両者をどうせめぎあわせるかという難問は残るが、最近の研究書を見渡すと、前者の類型に重きをおいたものに、たとえば G. M. Pinciss, Literary Creations (1988) がある。ここでは、coutier, savage man, overreacher, machiavel and villain, shrew というわずか5種の類型から、その派生的登場人物像が論じられている。あるいは、暗殺者の系譜をたどる Martin Wiggins, Journeymen in Murder (1991)、あるいは、Joseph Porter, Shakespeare's Mercutio (1988) 等々。

 後者の内面的性格論の中には、さらにまたさまざまなヴァリエーションがあるが、その最たるもの、典型的なものとしての、フロイト流の深層心理を想定する立場。フロイトは『夢判断』(1900)において、無意識の抑圧された願望が夢に現われるとして、ハムレットの復讐遅延を例に挙げる。「おまえ自身は、本当の話、おまえが殺そうとしているあの罰当たりよりも立派な人間ではないのだ」という内部の声にハムレットは復讐を阻まれている、というのだ。この箇所から敷衍された『ハムレット』論が、これもいまでは古典になった Ernest Jones, Hamlet and Oedipus (1949) だが、父親への殺意、母親への欲望、というオィディプス・コンプレックスの図式はいまでは半ば常識として、さまざまな文学作品の解釈に援用される。無意識の欲動が、普通の人間の場合は夢に現われ、特殊な場合に行為に移される。その行為された特殊な場合が、神話や文学作品などの物語として表現されたとする一方向のベクトルを考えるのである。

 この内面的性格論の最近の傾向として、"character" という概念の細分化(sophistication)があるように思われる。たとえば Bert O. States, Hamlet and the Concept of Character (1992)、あるいは Imtiaz Habib, Shakespeare's Pluralistic Concepts of Character: A Study in Dramatic Anamorphism (1993) のように、登場人物の "character" 自体が多重性を持っていると論ずることで、一挙に問題の解決をはかっているように見えるが、その実、同じ性格論のもうひとつの迷路に入り込んでいるにすぎないのかもしれない。

 結局、性格批評はなぜいけないのか。それは、端的に言えば、書かれていることをつなげて書かれていない領域まで入る際に、入り込みすぎる、という程度の問題に尽きるだろう。ところが、かといって劇の人物像を「適度に」人間的に想定しておけばよいというほど、シェイクスピア劇はおとなしく書かれてはいない。空隙と矛盾、飛躍と変貌に満ちた登場人物たちの投げかける難解な謎を解明するには、まったくあらたな演劇観が要求されるのかもしれない。

 その方向性を示唆しているのは、Alan Sinfield, Faultlines: Cultural Materialism and the Politics of Dissident Reading (1992) の立場で、彼は、劇中で変容する登場人物の複数の局面は、それぞれにその時代の文化のなかで優位を占める多様な人物像のモデルに対応していると考える。たとえば、デズデモーナの矛盾−−

 冒頭、オセローとの愛を確信する彼女は、自信にあふれ、父親という制度に対し大胆に挑戦する。自分のほうも求愛者 "half the wooer" であったと公言し、夫を追ってサイプラスに行くと「女性の性的欲望」に訴える。この果敢な反体制的行動にもかかわらず、デズデモーナはまもなく極めて従順な伝統的な女性像のなかに収まってしまう。執拗にキャシオの復職を懇願し、オセローの疑心を愚かにもかきたて、ハンカチーフをめぐる夫の追求に、あわて、とまどい、うそまでつく。男性原理のまえにおびえ、しかられる子供のようにおとなしく、寡黙なままで殺される。

 Sinfield は、この反体制的かつ伝統的というデズデモーナの矛盾を、女性が男性社会のなかで担わされてきた位置の(不連続な)連続体そのものに起因するとみなす。愛の物語を率先して紡ぎはじめるのも女性のひとつの〈かたち〉であり、後半、オセローの態度に圧倒されて勇気と知性を失わされたのも、もうひとつの確かな〈かたち〉であった(オフィーリアやコーディリアの同様の矛盾も、同様に解消することができる)。あるいは、デズデモーナにはそれ自身の character がない、彼女はオセローとイアーゴーの作る物語のなかの機能としてのみ存在し、異性愛と父権制の支配する文化のなかで男性原理によって書き込まれる存在である、と言い換えてもよいだろう。クレシダの場合も同様、トロイラスの側の純粋無垢な人物像を形成するために彼女は娼婦になる。父権制社会の表象を(あるいは広くイデオロギーそのものを)強化するためにある人物が使われると、彼/彼女は、一貫した、いわゆる〈人物像〉を失わざるを得ない。皮肉なことだが、劇の登場人物は〈人物像〉を想定しないときにはじめて説明できることになり、これもひとつのシェイクスピア批評の可能性としてあるのは確かだろう。


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