レポート・論文(卒業論文)の書き方

実例:英米文学

 

                           加藤行夫

 

1.「自分」を探して

 英米文学の作品、広くは英語で書かれた文学作品を素材にして論文を書くとき、言うまでもないことだが、作業の始まりから終わりに至るまで、ひたすらその作品を原語(英語)で読み、何度も読み続けることが大前提になる。ジャンルや作品の長さにもよるが、通常、問題発見のための通読で1回、論文執筆を前提にした熟読で1回、執筆中(あるいは執筆後)の確認で1回、と最低3回は読まなければならないだろう。何よりの難関は、学期末のレポートのように対象作品が決まっているならまだしも、卒業論文などの場合、これほどまでに長くつきあうことになる作品をまず自分の手で探しあてなければならないという点だ。でもそれは、学生時代に与えられた特権的な自由の歓びでもある(最初から最後まで好きなことを書いて仕事になる、最初で最後のチャンスかもしれない)。好奇心を旺盛に、知的アンテナを張りめぐらせて、原作のみならず翻訳、上演、映画、VTRと他のメディアを使ってでも、早い段階で(4年生大学で言えば3年生の夏休みぐらいまでには)自分にとって波長の合う作品(作家)と巡り会っていただきたい。

 作品が選べれば、それは実は自分にとって何が問題かを予感できたわけで、ここで作業の大切な部分はすでに終わったことになる。昔(まだ「英文科」が大手を振っていたころ)、卒論で扱うべき作品には一定の枠があって、なるべく評価の定まった古典を選ぶことが期待されていた。学生は、既成の価値基準にそって作品を決め、おのずと並ぶ立派な参考文献を勤勉にこなし、なおかつ独自の説を展開すべし、という無味かつ無茶な要求のなかで萎縮していた(「論文が書けない」というのは、ほとんどの場合、この「萎縮」が原因だ)。しかし時は移り、固定的な専門領域を超えた学際研究や文化研究の隆盛とともに、文学研究が対象とする範囲は一挙に拡大された。それだけに教育上の困難も弊害もあるが、いまは利点のみ強調しよう。すなわち、(作品をたんねんに読むという上記の前提さえあれば)あらゆる作品のあらゆることが論文になり得るのだ。大好きなスティーブン・キングの小説からその大衆文学的魅力の仕掛けを引き出してもよいし、ビートルズやジョン・レノンの詩から豊かな思想性を読み取ってもよい。求めるべきは、作品のなかに潜んでいる「自分」の問題の発見、それがすべてなのだ。(もちろん、自分の選んだものが論文として豊かな実を結ぶ見込みがあるかどうかは、指導教官のアドバイスを受けなければならない。)

 

2.「なぜ?」と問いつつ

 さて、何を論じたらよいのか。ストア派の哲学者セネカは、人生は短いのだから無益な考証の研究などに時間を使うな、と言い、その例として、ポンペイウスが闘技場で象と罪人を戦わせたということ等々を挙げ、そんな事実をいくら調べ上げても何の役にも立たないと断じている。しかし、それが意味のあることかどうか、始める以前におびえるよりも、まず自分自身が強く興味を引かれたことをひたすら追求しようという覚悟の方が大切だろう。論文のテーマ決定は、だからこその難しさが伴うとも言えるが、深刻になるには及ばない。膨大な先行研究の前で立ちつくすのではなく、しょせん新しい学説など出せるはずがないと居直って、のびやかに書きたいことを書く方がはるかに望ましい。かつて筆者の教室に、こよなく編み物を好む女性がいて、常に編み、編みつつ小説作品を読んでいたら、そのヒロインが同じく編み物をしていることに気づいた。その編んでいる場面だけを丁寧にたどっていくと、物語のなかで一定の役割を果たしているらしい、と論じ始めた学生がいる。これが原点なのだ。この発見の過程、心の動機といったものを内省的に確認して行けば、おのずと方向は見えてくる。

 そして、絶えず「なぜ?」と問いかけながら作品を読むこと。小説、劇、詩というジャンルの違いを越えて言えるのは、文学作品は言語による仮構物だということで、至るところに他のことばでもあり得た選択肢が延々と背後に控えている。したがって、有効な問題発見の手順は、虚心坦懐に作品と向かい合って読み進むうち、必ず「?」と引っかかるところが出てくる、そこでそれがもしそうなっていなければ作品はどう変わるかを想像してみることだ。たとえば、メルヴィルの小説『白鯨』の最後で、エイハブ船長をはじめ全員が海に沈んでしまった、そのあと、ひとりイシュメイルという男が棺桶に乗って浮かび上がってくる。「なぜ」彼だけ生き残れたのだろう、という疑問を持ったら、次に、イシュメイルが浮かんでこない、つまり全員が死んでしまった結末を考えてみる、すると作品はどうなるか、どちらがよいか。「なぜ」棺桶なのか、ただの木屑ではいけないのか。こういった方法は、限られた空間を前提にする劇作品の場合、さらに有効になる。『ハムレット』の冒頭でフランシスコという衛兵が交代して舞台から去ったが、それだけの出番の男に「なぜ」たいそうな名前が与えられているのか。そう言えば『リア王』の道化も劇の途中でいなくなってしまうが「なぜ」なんだろう。ケントは最後にどこへ旅立ったのだろう。そして、詩の場合は、はるかに微視的な個々のことばの意味に立ち戻る。『夏の夜の夢』で妖精たちが歌う詩のなかで、眠る女王に近づくなと命じられるヘビやらクモやら気味悪いもの、そこにカブトムシ(beetles)もいる。日本語の「カブトムシ」は気味悪くない、ならば英語では?

 

3.「勉強」はあとで

 もちろん、小説、劇、詩というそれぞれのジャンルが要請する基本的な了解事項はあるので、それらについての知識も必要になる。多くの小説には明瞭な「語り」の構造があり、また、特殊な時代性が直接に反映されやすい。劇は舞台の上で演じられるという制約があり、古い劇の場合には現代と大きく異なる約束事がある。英語の詩は厳格な形式のなかにことばを押し込め、豊穣なイメージを駆使する。そして、最も気をつけなければならないのは、作品は言語による仮構物だという原則を忘れないこと、つまり、作品中の事件や登場人物の人生をあたかもわれわれと同じ現実に存在するもののように錯覚してはならないということだ。これはあまりにも当然なのだが、この種の(「テスはかわいそう!」といった)卒論が実際にはとても多い。文学は作者と読者が共同で作る想像の世界なのだから、その作られ方の仕組みこそを解明しなければならない。そういった視点に立って初めて、作品を解体するための方法意識が生まれるわけで、そこが本格的な批評や理論への入り口となる。

 自分の書こうとしていること、書きつつあることが、このような最低限の了解を外していたり、とんでもない誤解や勘違いに基づいていたりする可能性は常にある。そのためにも指導教官との連絡は密にしなければならないが、同時に、関心を同じくする友人たちとの議論も大いにあってよいし、草稿を読んでもらってもよい(忌憚のない意見交換ができるのも学生時代の特権で、それが自分自身との対話である論文執筆にいかに寄与することになるか)。先輩の書いた卒論を閲覧する機会もあるだろうし、論文の書き方を具体的に示してくれる良書も多い(上記の「かわいそう」論文から批評理論への架け橋としては、川口喬一『小説の解釈戦略──『嵐が丘』を読む』(福武書店)が勧められる)。できる限りネットワークを広げておくこと、そのために近年はインターネットを通じて有益な情報にアクセスできるので、ぜひとも利用されたい。宮本陽一郎(筑波大学)のサイト(http://www.hibun.tsukuba.ac.jp/miyamoto/film/manual.htm)が懇切な「論文の書き方」を掲載し、アメリカ文学関係の参考文献も詳しい。福島比呂子によるVirginia Woolf Web内のサイト(http://www.aianet.ne.jp/~orlando/VWW/best.html)や、松岡光治(名古屋大学)のサイト(http://lang.nagoya-u.ac.jp/~matsuoka/index-j.html)も卒論執筆に役立つ膨大な情報リンクを提供してくれている。さらに、英米の大学英文科のホームページ(http://www.yahoo.co.jp/で探そう)をのぞいて、現在どのような研究テーマが課されているのかを知っておこうという意欲もほしい。(インターネット利用による情報検索は「洋書購入法、図書館(電子図書館)利用法」も参照のこと。)

 ただ、卒論を能率よく執筆するための現実的なアドバイスとして、これらの「勉強」は、ある程度(7・8割?)自分ひとりで論文を作り上げて、そのあとに行なう方がよいだろう。調べてから書くという通常考えられている順序の逆だが、卒論は時間的に制約されているという事情もあり、第一、こうした方がはるかに健やかに書き進めることができる。それに、自分自身の骨組みができていれば、他人の研究を効率よく理解し、批判的にも自説の肉づけとしても導入しやすくなる。ものを書く際には、上述の基本的誤解は避けなければならないが、極論すれば(学部の卒論では)先行研究など知らなくてもかまわない。仮に似たような研究がすでにあったとしても、文学の場合、全く同じものになるということはあり得ないのだから、自信をもって進めればよい。いけないのは、おびえること、図書館でお勉強はしましたけど、というだけの卒論なのだ。

 

4.「わからない」まま終える

 聴衆を引きつける講演は、聞き手だけでなく話し手にとってもわからないことが最後にほのめかされていると言われる。探求への真の興味は、まだだれにも知られていないこの未知の世界の予感にこそある。しばしば卒論はなるべく小さなテーマを設定した方がまとめやすいと指導されるし、事実そういう面もあるのだが、卒業のための必要単位と割り切って小さくきれいにまとめあげられただけの卒論というのも寂しい。あまりに自己完結した論文は生彩を放つ魅力に欠け、むしろ扱いかねて破綻している論文の方に将来性を感じることが多い。先々英米文学の研究を専門としなくとも、卒論を通じて自分のなかの他者と対話しつつ構築した問題は、今後ことあるごとに立ち返ってくる原点ともなる。臆することなく、多くの疑問点、未解決の問題をみずからに突きつけたまま終わろう。