コンピュータが読むシェイクスピア

──CD―ROM版『シェイクスピア大全』の完成に寄せて

加藤行夫

 意外に知れわたっていないことだが、文学とコンピュータは極めて相性が良い。いやむしろ、コンピュータによって文学は生まれ変わると言っても過言ではないだろう。一文字が一バイトにすぎない文学作品は、どれほど膨大な全集であろうとコンピュータのなかでは一瞬にして処理される。この量と速度の壁が破られたとき、文学は新たな可能性に向かって開かれる。

 この魅力的な世界を実現したのが、このたび新潮社からリリースされたCD―ROM版『シェイクスピア大全』(上野美子、松岡和子、加藤行夫、井出新編)である。この企画の売りは、何と言っても、これまでわが国で出版されたシェイクスピア劇の翻訳をほとんどすべて収録したという点だろう。坪内逍遥、小田島雄志の個人全訳をはじめ、筑摩書房版の全集、福田恆存訳、現在進行中の松岡和子訳等々、さらには森鴎外訳のレアもの、すでに絶版となって入手不可の数々──その総数百八十編、何と三万二千ページにもおよぶ書籍をたった一枚のCD―ROMに詰め込んでしまったのだ。

 一作品平均四〜五人(最も多い『ハムレット』が十人)による翻訳が収められているので、好みの翻訳家による達意の名文をディスプレイ上でページを繰るようにゆっくり味読してもよい。英語が読める読者は、収録されているアーデン第二版の原文と訳文を並べて楽しむことができ、原文から指定の翻訳の対応個所に一気に飛ぶこともできる。同一個所の複数訳を文単位でウィンドウズに並べることもできるから、"To be or not to be…" などの訳を比較してみるのもいいだろう。翻訳とは、言うまでもないが、大いなる文化遺産であり、そこには日進月歩の研究の成果がそのつど反映され、また時代の空気が織り込まれている。逍遙以来百年以上にわたるシェイクスピア翻訳の歴史が、マウスのクリックひとつでそのパノラマ模様を繰り広げてくれるわけだ。

 収録されている翻訳作品は、シェイクスピアの全戯曲三十七編、詩六編だけでなく、それらに関連があるとされているものも含んでいる。たとえば、『ロウミアスとジューリエット』や『リア王年代記』といった材源、共作説がある『サー・トマス・モア』、創作に影響を与えたと言われるマーロウの『マルタ島のユダヤ人』などで、シェイクスピアを本格的に勉強したい人や専門の研究者の知的関心にも十分応えてくれる。

 それだけではない。コンピュータを使うメリットは、これらのテキストに縦横無尽に張り巡らされたリンクで最大限に生かされる。「生と死」、「精神と肉体」、「国家と社会」といった大見出しのもと、「殺人」、「誕生」、「病気」、「戦争」など、シェイクスピアをより深く読むためのキーワード五十語を選び、図版とともに解説を加えた上で、アーデン版の関連個所にリンクさせた。気鋭の執筆陣による斬新な解説は実に興味深いものだが、何より、こういった情報のネットワークこそ二十一世紀にふさわしい読書形態というものだろう。

 そのほか、人物や時代背景をわかりやすく説いた一問一答、もちろんここからもさまざまな場所に飛べる。物語の人物関係図も全作品について新たに作成、収録したが、このような図版は、いままでありそうでいて実はなかった。さらに、第一幕、第二幕、と劇のプロットが展開し、登場人物の関係が明らかになるにつれて、それぞれの対応個所で徐々に生成されてゆく関係図も作られた。

 そして、美しいデジタル・ミュージアム。シェイクスピアに関わる豊富な写真、画像、作品をモチーフとした絵画、実際の上演舞台、映画、音声(江守徹主演の『ハムレット』全編収録)などオーディオ・ヴィジュアル満載、まさに「大全」と称するに値するシェイクスピアの集大成である。

 それにしても、書籍版のアナログな文字情報をデジタル化するに際して、大量のデータ入力とそのチェックに費やされた編集部の労苦は並大抵のものではなかっただろう。その他企画、編集作業全般、長期にわたる彼/彼女たちの忍耐強い努力に心から感謝し、次の時代に引き継ぐことのできる偉大な資産の誕生をともに喜びたい。

(かとう・ゆきお 筑波大学教授)