観客のなかの〈悲劇〉

──シェイクスピア劇の認識構造

 

 17世紀末に書かれた Thomas Rymer "A Short View of Tragedy" というエッセイは、Shakespeare 劇に対して初めて体系的な分析を試みたものと言われている。素朴な

"poetic justice" を評価基準としたこの悲劇論は、とりわけ作品 Othello への非難でも知られ、その後賛否両極に二分されてゆくOthello 批評史の発端をなすことになった。合理性と蓋然性という厳格な尺度によって Rymer は、Iago の人物設定、Desdemona の殺害、ハンカチーフの意味と、ことごとくに異議を唱えたあげく、救いようもなく耐え難いのはその終幕であると断ずる。「(この劇を見終わって)家路につく観客のなかに、いったい何が残り得るのか?」と彼は問い、これは悲劇などではない、「血なまぐさい笑劇farce」であると文章を結んでいる(1)

 「観客のなかに何が残るのか」というこのさりげなくも根源的な問いかけは、以来、Shakespeare の悲劇をまえにした評者たちにたえずつきつけられることになる。長らく Rymer への冷笑的な反論の時代が続くことは周知のとおりだが(2)、しかし、この現代にあってあらためて承認されてきたのは、これらの劇が仮に精神の秩序回復とはほど遠い、むしろ混沌にまで至る破壊的衝撃を与えるとしても、まさにそれゆえにこそ Shakespeare 悲劇の深さがあるという理解だろう。「観客にも不可解」と Helen Gardner に言わしめた、謎そのままに提示された危機あふれる世界像それ自体が、Shakspeare 悲劇のありようという次第なのだ(3)。それは、John Turner の的確な要約によれば、Nietzsche の言う「危険な真理」に当たり、いわゆる ambivalence と総称されることがらでもあり、また、Freud が注目した taboo の領域にかかわる、容易ならざることなのかもしれない(4)

 しかし、何を称して悲劇的なるものとするのか。そもそも悲劇とは何か。こういった問いは、悲劇という範疇にどの作品を、あるいはどの現象を入れるかという問いとともにあり、その意味で危険な循環論を内包している。したがって、まず、この問題を論ずる本稿の立場を三つの前提によって明らかにしておかなければならない。第一の前提は、悲劇的 tragic という概念を、観客のなか、受容者の意識において経験されるものととらえるということ。そして、第二の前提は、その観客意識を形成する外部的契機として、作品はある一定の形式から免れない、というものであり、さらに第三の、以下の議論の大切な基点となる前提は、その作品形式が、物語内の、および物語と受容者との、「認識」のありようにかかわっている、ということである。

 これら三点は、アリストテレスの悲劇論の要点を解釈しつつ踏襲したもので、独創的でないかわりに、さして奇異なものでもない。が、本質的には、これらの前提にさらに先んじて、そもそも悲劇的意識とは、生きたというあかしを求めるわれわれの深い願望と表裏の関係にある−−悲劇形式はその願望を疑似的に体験させてくれる仕組みをもつ−−という確信があると言ってよいだろう。観客は悲劇に、つまり劇に、何を求めているのか。主人公の幸せな結末ではない、凄絶な死そのものですらない、死に至らざるを得なかった、その死によってきわだつ必然としての生のありようを、すなわち明瞭な意志のかたちを、確認したいのではあるまいか。せいいっぱい生きた、その死はやむを得なかった、とわかってもらうこと、それが悲劇的昂揚の、いわばカタルシスの原理なのではないか。第三の前提で述べた「認識」とは、個別的には物語内の事実伝達に基づくものだが、最終的には主人公の、ひいてはそれに仮想的に託された観客自身の、生と死のありかた全体に向けられるものなのだ。われわれは、要するに、わかってもらいたいのではないか。悲劇作品には、この「わかってくれる」ための形式が縦横に張り巡らされている、と考えられないか。

 その決定的な要因が、コ−ラス的人物による認識の経緯となることはいうまでもない。毒が回るわずかの時間に、Denmark の王子はみずから終焉を朗々と語り、傍らの朋友に生き延びてくれるよう念を押し、王権授受に値する Norway 王子の登場を察知してから息絶える。また、娘たちの裏切りという悲哀に耐えかねて絶命する老王は、終始つき従っていた忠臣にみとられ、同等の苦難を経た者たちによって秩序の回復が約される。およそ悲劇作品の終幕に共通するこの種の構図が、われわれ観客の普遍的と言ってもよい感動ないし昂揚に不可欠の契機を与えていることは疑いないだろう。古代ギリシア劇のコロスの末裔、総称して彼ら「舞台の上の観客」の、その冷静なまなざしを頼りに、観客は主人公の不可避であった生と死を正しく認識する。同時に、主人公の方も、死の直前まで明瞭な意識を失わず、甚大な摂理を認識しつつ、かくあるみずからの姿が物語内の第三者によって認識されたことそれ自体を認識し、ようやく安らかに息をひきとる。

 主人公と「舞台上の観客」、そしてわれわれ観客をとり結ぶこの三者関係の安定した相互認識は、悲劇の成立を根源のところで支える基礎となっている。いにしえより悲劇は、神ないし宿命、つまり偶然をも含む人知を超えた力と、それに挑戦する人間の自由な意志との対立という主題を示してきた。人間の側の敗北は必至であるにもかかわらず、その戦いは決して空しいものではない。敵が強大であればあるほど、果敢に挑んだ者の強さもまた立証され、つまりは彼の厳然たる主体的精神の存在が証明されるからだ。これを悲劇作品に内在する必要条件とすれば、一方、主人公の鮮烈な意志が広く他者に了解される−−彼の行為ひいては生そのものが、いわば意味づけられる−−という、形式面の十分条件がそろって、初めて根源的な願望の達成が幻想できると言えよう。惰性的で無意味な現実のさなかにあって、死をも覚悟で意味ある生を体験すること、それはまさしくわれわれ観客自身の見はてぬ夢にほかならない。

 さて、しかし、とわれわれはここから、いっそう慎重に考えを進める必要がある。認識する主体としての自己が、他者から認識され、両者の関係性総体をさらに観客が認識する、というこの擬似的な、それゆえに純粋な理想型としての悲劇は、しかし一体可能だろうか。何より、非現実的なまでにできすぎた悲劇は、そのまま安直なメロドラマに転じてしまいかねない。もともと Shakespeare の悲劇から引き出したこの認識の構造を、再び

Shakespeare 悲劇の舞台に帰して実態を検討してみなければならないだろう。

 King Lear の主人公は、愛への渇望において十分主体的ではあったが、苛酷な現実に追いつめられて正気を失ってしまう。彼は忠臣Kent という申し分のない「舞台上の観客」に常に見守られているにもかかわらず、しかし、Lear からは当の相手をまともに見ようともしない。"Out of my sight!" (I.i.157)(5)と怒りで始まった王の視線は、終幕に至ってすら、これまでの変装を明かす Kent に正しく向けられることがない。もはや名乗っても無駄、と諦める Albany Edgar の判断が、もしそのまま Lear の精神状態のすべてとみなされてしまうなら、主人公は認識する主体を狂気のなかに失ったまま死んだことになり、この劇にいかなる救いも発見できなくなる。

 事実、救いのなさは、幾人かの女性たちによって体現されている。彼女たちは主人公の悲劇的な死に大きな役割を果たすにもかかわらず、みずからは理由もなく死ぬか、もしくは自身の死の理由も知らず死んでゆく。DesdemonaCordeliaOpheliaBrutus の妻Portia などがその例で、半狂乱のうちに自害する Lady Macbeth もここに含まれるかもしれない。認識を断たれたこれらの人物の末期は、反=悲劇的としか言いようのない、やりきれなさを残すのみで、虚構としての悲劇に、極めて現実的な、浄化されない悲しみを侵入させてしまう。このような、認識しない、認識されない人物たちの否定形のただなかに、主人公を巡ってかろうじてたどれる認識のすじが一条、確かに Shakespeare 悲劇にはある。厳密に見れば、Shakespeare 劇の主人公たちも、実は周囲の人物の暖かい理解の手をかたくなに拒んではいる。Hamlet に終始つきそい、死までもともにしようとしたあの Horatio ですら、形式面での認識者としての存在と、実質的認識行為には大きな距離があった−−つまり、やはり Hamlet は孤独だった。主人公と「舞台上の観客」との相互認識は、たやすくは実現はしていない。

 しかし、決して断絶しているわけではない。作品 King Lear の場合、振り返れば、前場 の最終場面で一時的に覚醒した老父は、末娘の存在をそれと認識し、「愚かな年寄り」という明解な自己認識を経て、静謐な心で謝罪していた。そして、Kent もそこに居あわせ、ことの顛末をはっきりと見届けている。決着はすでについた、そのあとに再びさまよいだす意識が、正気と狂気との極めて微妙な境界をたどっても、"This is a dull sight./Are you not Kent?" (V.iii.256-7)と問う王は、忠臣との相互認識の一歩手前で、しかし確かに見ることそれ自体を強く志向し続けている。そして、息せぬ Cordelia の口元に幻影を見て−−"Look there, look there!" (287) と−−こときれる。娘たちのむごい仕打ちによる老人の発狂、という哀れにも悲しい、そしてあまりにも現実的な事件から、劇作家はただひとつ、認識への強い意志を探りあてていると断言してもよいだろう。

 舞台上の事実関係だけを見れば、Lear Kent を認めず、末娘が生き返ったと幻視して、それゆえいっそう痛ましく死んだにすぎない。ところが、認識の対象を狂気によって主人公から遠ざけた Shakespeare は、できあいのカタルシスと引き換えに認識への意志そのものを強いヴェクトルとして提示して見せたことになる。この中断された Lear のまなざしをそのまま引き受けて承認するのは、ほかならぬわれわれ観客であろう。完成されなかった認識は観客のなかで願望としてとどこおり、その限り、主人公の主体的精神が観客の意識において浮き彫りにされる。喜びに満たされたハッピ−エンドも、清らかな涙でみとられる臨終も、どちらをも拒否することで、劇作家は、悲劇の成立にどうしても見失ってはならない最後の、最も重要な一点を、つまり主人公の心の強い動きそれ自体、厳然たる精神の姿そのものを、前景化したのである。

 他者による自己の存在証明という悲劇の理念と、それをできすぎたこととして退ける誠実な現実意識との両者が、ともにあいまってShakespeare の作劇感覚を支配していた、と表現してもよいだろう。確かなことは、安易には完成されなかった悲劇が、それゆえにこそ逆説的に、より強い説得力をもつに至るという事実なのだ。

 それにしても、典型的類型的な「舞台上の観客」がともかくも登場する Hamlet King Lear の場合は、少なくとも安定感ある形式を備えていることになる。ところが、それに対し、Othello Macbeth の主人公は、ひとりとして理解者を伴わず、むしろその生の意味が誤解されて死んでゆく、これをどう考えたらよいのか。Othello はもとより家庭悲劇という設定のため、他人のまなざしを待ち望む状況にないまま、認識は自己完結的に閉ざされる、といった面はあるかもしれない。ならば、Macbeth は、そして Richard III はどうなのか。

 従来これらの劇が悲劇の扱いを受けてきたのは、悲劇的欠陥をもった人間が大いなる運命に翻弄されて失墜するという、Bradley 流の悲劇観によるものだった。あるいは、死に至って解けた Othello の誤解、すなわち Desdemona との愛の成就、もしくは Macbethの行き着いた高邁な悟り、など物語事情の内側での説明が苦慮されてきた。また、近年では、Richard Marienstras のように、悲劇の主人公が排斥される手順を共同体における供犠−−sacrifice ないし scapegoat−−のアナロジーで説明し、悲劇という枠組みをとらえ直す向きもある(6)。さらに、これらの

Shakespeare 悲劇を「不完全なカタルシス」の劇と断じてしまうのは先ほどの John Turner である(7)

 しかし、われわれは、Hamlet King Lear によって代表される、形式面での認識構造が用意されている作品グル−プと、Othello Macbeth のような、認識欠如の作品グル−プとから、やはりある種の共通した原初的な感動が与えられるという確信を揺るがせるわけにはいかない。もとより、悲劇として Othello Macbeth を論ずる際、劇中の理解者不在がこれまでさして問題にされてこなかったという事実こそ喚起されるべきだろう。それは、不在が欠落感として意識されないメカニズムが働いているからに相違なく、実際、主人公への共感的な認識者が舞台上に存在しなくても、これらの作品の悲劇性は少しも損なわれていない。その原理もまた、すでに King Lear に限って述べたものとまったく同質の、やはり観客が悲劇の構図上の欠如部分をみずからの内部で補完する、あるいは先どりして言えば、変換する心理のうちにある。

 Iago の策謀にだまされて貞淑な妻を疑い、絞殺してしまった直後に真相が伝えられ、自害して果てるムーア人の生涯は、あまりにも悲惨なものだ。彼の死を目撃する一応のコーラス役たちも、口をそろえて「無謀な犬死に」を嘆くのみで、主人公の行為がやむを得なかったと認めるわけでもなく、まして彼の抱いた絶望的な悲哀を心から共有するわけでもない。Othello 最期のひとりぜりふを聞いていたはずの舞台上の聴衆も、たとえば Gratiano が、早計な自殺にただ驚愕し、Lodovico が、ムーアの財産差押えを命じつつ惨事の報告に戻るくらいで、誰ひとり主人公の悲劇性を確認する者はいない。Hamlet も死に際して朗々と語るのに、Othello の長ぜりふに限って「みずからを鼓舞する」行為ないし「自己劇化」などと決めつけられるのも(8)、この周囲の反応のなさ、ないし、ずれに起因すると言えなくないだろう。妻を深く愛していた、という一途な主体的精神が主人公を支える原点だったはずだが、それは結局 Othello のひとりごとに終わり、ただひたすら愚かだった男の無謀な死にざまに人々は眉根を寄せているにすぎないのだ。

 Othello が倒れた直後、ひとことだけつぶやく Cassio の、"This did I fear, but thought he had no weapon; / For he was great of heart." (V.ii.370-1) というせりふの解釈には少し立ち止まってみなければならない。「こうなることを恐れておりましたが、武器はもっていないと思いましたので」のあと、"For he was great of heart." の箇所が、従来は、「偉大な精神の持ち主であられたから」と主人公の人格に対する肯定的な評価と読まれてきた。しかし、ここは、最近 Balz Engler が論じたように、「(心臓が肥大するほどの激情にあふれ)自暴自棄になっていたので」という否定的な嘆きととる方が妥当と思われる(9)。接続詞 "For" の機能、"great" "of" "heart" という三つ語の Shakespeare の慣用などから主張される Engler の説には説得力がある。ところが、そうなると、もうこの劇にはひとりとして Othello の「偉大な精神」について意識する者はいなくなる。「こう伝えていただきたい」と語りだした主人公の思惑は、結局、彼個人の単なる希望でとどまったまま終わり、いっこうに相互の認識を成立させない−−つまりは、悲劇としての必須の条件を大きく欠いていると非難されるのも、理由のないことではなくなるのだ。

 ちなみに、この "great of heart" "great" に対する「偉大な」という解釈は、坪内逍遥以来、日本の Othello 訳者たちがこぞって採用し、ドイツの Alexander Schmidt Shakespeare Lexicon この形容詞に "magnanimous" の定義を与え、のみならず、Dover Wilson をはじめイギリス本国でも根深く定着している(10)。正否の判定は性急になされるべきではないだろうが、ここではあえて「心臓肥大」という Engler の説に組みし、「偉大な精神」を誤読と考える。が、むしろ、そのような誤読が自然に生じてしまった心理こそ極めて興味深い。Othello の生涯に対して舞台上の誰かに何としても「偉大さ」を認めてもらいたい、という観客の側の期待がそうさせたと言えないか。あるいは、少なくとも観客のなかでだけは Othello の「偉大さ」が信じられていた、その証左とは言えないだろうか。

 ともあれ、劇のなかで Othello は理解者を得ていない。コーラス役として最もふさわしかったはずの Emilia は、物語にかかわりすぎたがゆえに殺されてしまう。これほど認識の断絶された劇が、なぜ悲劇なのか。現実世界の混沌とこれらの劇とどれほどの違いがあるのか。ここに至って本稿の方法論のなかに、もうひとつの基本用語を導入しなければならない。それは、変換ないし転換という概念である。悲劇の舞台に臨んだ観客の悲劇的経験は、実はこの変換という過程を経て初めて、われわれの内部に結実するもののように思われる。たとえば、Timon of Athens において、友情に至上の価値を認める主人公は、苛酷な現実のまえで挫折するが、志なかばでついえるという、そのことによって彼の心の純粋さ、友情への強い志向がより明確に際立たせられたのだった。より平明な例として Romeo and Juliet をとれば、ふたりの男女は愛しあっていたから死をも覚悟した、というのは、あくまで物語の事情であって、演劇的に体験されることは、死によって結晶させられたがゆえに美しく輝く愛、ということなのだろう。虐げられることによって、それに耐える者の美徳は高まり、悪によって、善は存在させられる。人間の内部に潜むさまざまな意志は、その目的とするものが外部から阻まれることによってこそ顕在化する、という逆説が思い起こされればよい。

Othello という劇が、ことの真相と愛の成就から遠く隔たれてしまったまま終わるにもかかわらず、高度な悲劇的感動を呼び覚ますのも、Emilia の厳しい叱責に代表されるコーラス役のせりふが、観客のなかで完全に価値転換されるからにほかならない。Othello みずからが弁明したことば、「愛することを知らずして愛しすぎた男」("one that loved not wisely, but too well", V.ii.353)が、そのための変換公式となるだろう。愚かだった、無知だった、と舞台上の他者からとがめられる度合が強ければ強いほど、それだけ現世を超越した無条件に純粋な愛が、劇を見る観客の意識においては確かに承認される。われわれの望みは、すでに主人公の賢さなどにはない、愚かにも激しく生きた、そして死んだ、その熱い生命の燃焼が経験できればそれだけでよい。

 換言すれば、偉大さ magnanimity、高貴さnobility といった悲劇の核概念は、それ自身がなんらかの実体をもって提示されるものではないだろう。ある行為をしたから、あるせりふを語ったから、偉大なのではない、そうではなく、われわれが日常生活においてこざかしく身につけているものがない、ないからこそ偉大なのだ。Othello のそれが賢さの欠如した高貴さだというのは当たらない、そうではなく、賢さが欠如しているがゆえの高貴さなのだ。舞台上の欠如によって、われわれのなかで逆になにものかがあらわにされる、という視点こそ、Shakespeare 悲劇の経験の謎を解く鍵となるのである。

 作品 Macbeth も作品 Othello と似て、登場人物たちは終幕において一斉に「極悪非道」の主人公を弾劾し、その転落と惨死に心底歓喜する。しかしながら、そういったことばは、重ねられれば重ねられるほど、むしろ物語の一段上のところで、Macbeth はともかくも明瞭な輪郭ある生涯を、無定形な現実のなかで全うし得た、という事実認識に転じ、その限り、憎しみに満ちた登場人物たちによる Macbeth 追悼は、観客にとっては一挙に Macbeth 賛歌と化して聞かれるのではないか。Macduff "Here may you see the tyrant." (V.x.27) と面罵したように、彼は謀反人と命名されて死んだ、が、それゆえにこそ間違いなく名づけられ得る者として生きた。ここには最も壮大な規模の価値変換のダイナミズムが見られるだろう。悪という陰画の世界ではあっても、問われるのはもはやモラルではない。「あした、あした、あした」と退屈な時間を生き永らえなければならないわれわれ観客にとって、また、みずからの死になんらのかたちも与えることのできない観客ひとりひとりにとって、それははっきりと意味づけられた人間存在の確かなかたちとして、心の深いところで希求されていたものに相違ない。

 「観客のなかに何が残るのか?」−−Rymer から課されたこの大きな問いかけには、相応の大きな答えをもって本稿を終えるのがふさわしいだろう。現代的かつ脱=悲劇的な Shakespeare 劇を見終わったあと、われわれ観客のなかには、極めてまっとうな意味での、それはアリストテレスの定義を少しも外れることがないという意味でもまっとうな、ほかならぬ「悲劇」そのものが、つまり、観客のみ特権的に享受できる悲劇的意識こそが、残る、いや正しくは、創られるのである。

 

 

 

 

(1) Thomas Rymer, "A Short View of Tragedy" (1692), in Mark W. Scott (ed.), Shakespearean Criticism, Vol. 4 (Gale Research Company, 1987), pp. 370-380.

(2) たとえば、Charles Gildon (1694;1710), John Hughes (1713), Lewis Theobald (1733), William Warburton (1747), Charlotte Lennox (1753)からHarry Levin (1964)に至るまで。See ibid, Mark W. Scott (ed.), pp.380-564.

(3) Helen Gardner, "Tragic Mysteries", in David Bevington and Jay L. Halio (eds), Shakespeare, Pattern of Excelling Nature (Associated Univ. Press, 1978), p. 90.

(4) John Turner, with Graham Holderness and Nick Potter, Shakespeare: The Play of History (Macmillan, 1988), pp. 150-154.

(5) 以下、Shakespeare 劇からの引用は The Complete Oxford Shakespeare, eds. Stanley Wells and Gary Taylor (Oxford, 1987) による。King Lear の幕・場・行については The Tragedy of King Lear (The Folio Text) に従う。

(6) Richard Marienstras, New Perspectives on the Shakespearean World, trans. Janet Lloyd (Cambridge Univ. Press, 1985), pp. 73-98.

(7) John Turner, ibid.

(8) T. S. Eliot, "Shakespeare and the Stoicism of Seneca", Selected Essays (Faber, 1951), pp.130-1; F. R. Leavis, "Diabolic Intellect and the Noble Hero", Scrutiny 6 (1937), pp. 259-83.

(9) Balz Engler, "Othello's Great Heart", English Studies: A Jounal of English Language and Literature (Swets & Zeitlinger B. V., 1987), vol. 68, No. 2, pp. 129-136.

(10)"...Cassio's epitaph, brief but sufficient", Othello, ed. Alice Walker and John Dover Wilson (Cambridge, 1957), Introduction, p. lvi.

 

付記:本稿は日本英文学会第61回大会(1989521日、青山学院大学)における口頭発表を一部修正したものである。議論の発想は拙著「悲劇と認識」(研究社『英語青年』198711月号)に基づくが、そこでは未解決だった Othello をめぐる悲劇性と認識の経緯が、今回の主たる関心事となっている。