"Enter Hamlet." の意味

加藤行夫

 自明の事実と思いこんでいても、あらためて立ち止まって考えてみると、実はよく理解していなかったということがしばしばある。
 たとえば、シェイクスピア劇などにごく普通に書かれている "Enter Hamlet." というト書き、これは正しくは何を意味しているのだろうか。「ハムレット登場」には相違ないが、文法的に "Enter" という動詞は "Hamlet" という固有名詞とどう関っているのか。
 学生のためにシェイクスピア劇の見方をやさしく説いた尾崎寄春氏は、『リヴァーサイドのシェイクスピア』(英宝社、1994年)の「まえがき」でこう説明している。

 「ハムレット登場」('Enter Hamlet.')というト書きは「ハムレットを登場させよ」(Let Hamlet enter.)という、役者(あるいはプロンプター)に対する命令です。(p. v、下線筆者)

 この種のト書きが「役者」のためであった証拠として、氏は続いて、Romeo and Juliet の Q1で "Enter Peter." (IV.v.102) と記されていたト書きがQ2では "Enter Will Kemp." となっている点を挙げる。ピーターを演じたとされる当代切っての道化役者の名前がつい侵入してきたのは、これが「役者に対する命令だから」という次第だ。

 しかし、尾崎氏による上記引用箇所について、岡本靖正氏は書評(『英語青年』1994年11月号)のなかで異議を申し立てる。

 ["Enter Hamlet."というト書きは、「ハムレットを登場させよ」ではなく]「ハムレットは登場せよ」とあるべき(従って[役者(あるいはプロンプター)とあるうち]プロンプターは不適切)か。(p. 38)

 「プロンプター」を対象と考えるべきか否か、どちらにしても「役者」への命令であることはまちがいないらしい。すると、尾崎氏の場合は、「役者」が「プロンプター」と「あるいは」で同列にされているので、「ハムレットを登場させよ」という命令が「プロンプター」に対するものと同様に「役者」に向けられたものなら、登場させるのは「ハムレット役者」、そして登場するのは(つまり "Enter Hamlet." の "Hamlet" は)悲劇『ハムレット』における「デンマーク王子ハムレット」だ、とこう考えてよいのだろうか。あるいはまた、岡本氏の「ハムレットは登場せよ」という訳文をどのように理解したらよのだろうか。
 この一見基本的な問題は、意外なことに、わが国のシェイクスピア研究者のあいだでも意見が一致していない。"Enter Hamlet." の "Hamlet" を vocative(呼格)ととるもの(つまり「(おーい)ハムレット!登場しろ」という役者への命令)から、単に "Hamlet enters." という平叙文が倒置されたもので三単元の "s" が落ちただけという説明(これは論外だろう)まで、多彩に解釈されているという事実自体が興味深い。
 ちなみに、日本の英和辞典がこれをどう扱っているか見てみれば、見解の不一致ないし理解のあいまいさが端的にうかがい知れる。

 岩崎民平他『新英和中辞典』第4版(研究社、1967/1977)
enter vi. 2 [演劇]登場する(脚本のト書きではしばしば3人称命令形で
用いる; →exit): E〜 Hamlet. ハムレット登場(Let Hamlet enter. の意)

 このあたりの記述がおそらく平均的な説明になるのだろうが、やはり「ハムレット登場(Let Hamlet enter. の意)」という説明だけでは初学者にはわかりにくい。そして「3人称命令形」(1994年改訂の同第6版では「3人称命令法」に修正)という文法用語が鍵になっていて、類する用語は他の英和辞典にも多く見出せる。高橋源次他監修『英和中辞典』(旺文社、1975)では、この「3人称命令形」に「舞台上の動作のさしず」という但し書きが付け加わっているものの、だれからのだれに対する「さしず」なのかというわれわれの関心には答えてくれていない。小西友七他『英和中辞典』第2版(小学館、1980/1987)は、「登場せよ」という訳語を与えつつ「3人称に対する命令」と説明し、さらに(不可解なことに)「Enter Othello. [=Othello 〜s.] オセロ登場」と平叙文で言い換えている。同じ小西友七編による『ジーニアス英和辞典』(大修館、1988)も、「しばしば命令形で」という説明のあとに、「Enter Macbeth. = Macbeth 〜s [comes in].」と同様の言い換えがある(1994年の改訂版では「Let Macbeth enter.という間接的な命令」と修正されているが、「間接的な命令」とは何だろうか)。
 これらは一応「三人称命令(法)」という説明をしているものとしてまとめられる辞書の一部だが、しかし、ここで確認しておかなければならないのは、英文法には「三人称命令(法)」という用語は通常は使われないということだ。文法書によっては、Everyone here stand up. のような文を「三人称名詞に対する命令」と述べている場合もあるが、ここでの問題とは異なる。さて、一方、英和辞典には「仮定法」という説明をしている少数のグループがある。

 小稲義男『新英和大辞典』第5版(研究社、1980)
enter vi. 2 登場する; [演劇](通例、ト書きとして)[仮定法で]登場
せよ (→exit): Enter Caesar. シーザー登場.

 前掲の辞書と同じ出版社で解釈が異なっているわけだが、同種の説明は、川本茂雄『英和中辞典』(講談社、1994)も与えている。しかし、どちらも「仮定法」という用語から初学者が通常想定する意味と「登場せよ」という訳語とには齟齬があって、いま一歩の説明を要するのではないか。
 「仮定法」と記した辞書が「三人称命令(法)」と説明した辞書より数的にはるかに少ないのは、あるいは英和辞典が O.E.D.の強い影響下にあるからかもしれない。その本家を見てみよう。

 Oxford English Dictionary (1878-1989)
Enter v. 1. b. simply. To come into the place indicated by the context. Of an actor: To come upon the stage; in the stage-directions of plays used constantly in 3rd pers. imper. sing. and pl. Also fig.(下線筆者)

 「三人称命令法」の典拠はここにあったようだ。しかし、("Enter" の項目順から考えて)O.E.D.が編纂されはじめたごく初期に使われた用語「三人称命令法」が、そのまま現代にも適切であるかどうかは別問題だろう。英語では、命令は本来的に目の前の「二人称」に対するものという了解があって、その場にいない「三人称」に「命令」するという観念をどうしても取り込むことができない。これに関係して、C.O.D. (Consice Oxford Englsih Dictionary) の説明の推移が無視できない。O.E.D.を元に編纂された C.O.D.によれば、初版(1911)から第5版(1964)までが "3rd pers. imperat. as a stage direction" と本家を踏襲しているのに、第6版(1976)と第7版(1982)では "3rd pers. subjunctive as stage direction" と「仮定法」に変わって、さらに最新の第8版(1990)では単に "as a direction" と文法の説明を避けている。これはどうしたことか。
 一方「仮定法」という説明について考えてみよう。これと相まって "Enter Hamlet."="Let Hamlet enter." の言い換えが、シェイクスピア作品の注釈書では一般に採用されてきた。

 岩崎民平『ヴェニスの商人』(研究社小英文学叢書、1950)
Enter「...登場」文法的には「登場せしめよ」という指圖で、Subjunctive で
ある。

 中島文雄『マクベス』(研究社小英文学叢書、1950)
Enter=(subjunctive) let...enter.

 "Enter Hamlet."="Let Hamlet enter." という言い換え自体は、古くは齋藤秀三郎『英和中辞典』豊田實増補(岩波書店、1933/1952)にもあったものだ。そして、大塚高信『シェイクスピアの文法』(研究社、1976)は、この "Enter" を「仮定法」の項で解説し、こう述べる。「往々にして、一・[sic]三人称の命令と考えられているが、それは当たらない。今日の英語では主として "let...不定詞" で表わされる。」
 どうやら「仮定法」が優勢のようだが、しかし実は、そもそも "let...不定詞" 自体がどういう意味なのかという点について、(少なくとも日本人研究者のあいだで)了解が異なっているように思われる。それは、「ハムレットを登場させよ」と何らかの「二人称」(「ハムレット役者」および/あるいは「プロンプター」)に向かって声をかけていると考える尾崎氏、そして、「ハムレットは登場せよ」と「三人称」(厳密には「デンマーク王子ハムレット」のことだが、現実の舞台状況では「ハムレット役者」でもあり得る)に関わる指示ととる岡本氏、という二極に分かれるようだ。
 日本語では「〜させよ」としか訳しようのない英語の "let...不定詞" 構文は、しかし、もちろん文字どおり眼前の「二人称」への命令の場合も多いが、必ずしも声をかける相手を想定しなくてもよいのではないか。最も好例となるのは、旧約聖書「創世紀」の冒頭、ここに存在するのは「神」のみだが、彼が高らかに命ずる第一声「光あれ」"Let there be light." (Genesis, 1:3) はだれに向けられていたのか。シェイクスピアから例を引こう(以下、FとQの例を除き、引用はオックスフォード版全集による)。

 ANTONY: Let Rome in Tiber melt, and the wide arch
  Of the ranged empire fall. Here is my space.
  Antony & Cleopatra, I.i.35-36

 「ローマをタイバー川に溶かし込めよ」とアントニーが叫ぶとき、これが具体的なだれかに向かって命令されたものとは考えられない。このような願いや呪いなど人間の想念の世界での発話、すなわち「叙想法」ないし「仮定法」の用法が "let...不定詞" にはある。それは、想念の世界であるがゆえに三人称を容易に引き込むことができ、「天も落ちよ、地も裂けよ」と、壮大な大自然をも対象とし得る。アントニーの文の後半、「堂々たる帝国の凱旋門も倒壊するがいい」は let を伴っていないが、これも同様の語法と考えられるだろう。さらに、慣用的に動詞が欠落している場合も、この例に含めてよいかもしれない。

LEAR: A plague upon you, murderers, traitors all.
King Lear, V.iii.244

 面倒なことに、この種の「仮定法」と通常の「命令法」との差、つまり対象となる名詞を三人称ととるか二人称と見るかが、必ずしも歴然としているわけではない。

 CASSIUS: Why, now, blow wind, swell billow, and swim bark!
Julius Caesar, V.i.67

これを、「風よ、吹け、浪よ、高まれ、船よ、揺れよ!」とそれぞれに二人称への vocative と読むか、それとも「天も落ちよ」と同種の三人称への祈願文と考えるか、決め手はない。形はそれと同じでも、明らかに vocative としかとれない例もある。

 LEAR: Blow, winds, and crack your cheeks! Rage, blow,
You cataracts and hurricanoes, spout
Till you have drenched our steeples, drowned the cocks!
King Lear, III.i.1-3

引用冒頭の "Blow, winds"(オックスフォード版)はFおよびQでは "Blow winds" となっていて、前掲の引用箇所との差異はないのだが、直後の "your", "You" の呼びかけが命令法としての解釈を決定する。
 "let...不定詞" の問題に戻って、最初の問題に一応の結論を与えておこう。 "Enter Hamlet." は「仮定法」であり、 "Let Hamlet enter." と言い換えた場合でも、「二人称」の何者か(たとえば「プロンプター」)に向かって「〜させよ」命じていると考えるべきではない。厳密には、「ハムレット役者」個人に関わることがらでもなく、純粋に物語内人物としての「デンマーク王子ハムレット」に向けられた願いの表明として読まなければならない。 "Enter Hamlet." ということばによって、はじめてハムレットは存在を許される。それは、無の空間に突如として有を生じさせる演劇の本来の機能、いわば魔術の世界にも通ずる神秘的な場の実現にほかならない。
 シェイクスピア時代のト書きを「物語言語」"fictional signals"("on shipboard", "within the prison", etc.)と「舞台言語」"theatrical signals"("within", "at another door", etc.)とに分けたのは Richard Hosley だが("The Gallery over the Stagein the Public Playhouse of Shakespeare's Time", Shakespeare Quaterley 8, 1957)、Alan C. Dessen はそれをさらに敷衍して、エリザベス朝演劇の上演形態の復元に努める。しかし、この二分法は、あるト書きがどちらに属するかを考える際、当時の上演形態にいかなるものを想定するかによって判断が揺れざるを得ず、往々にして循環論に陥る危険性があるだろう。Dessen も両者の見極めを困難にするト書きがあると述べ、たとえば "Romeo opens the tomb." などを挙げる(Recovering Shakespeare's Theatrical Vocaburary, Cambridge University Press, 1995)。関連して、人物の「登場」をめぐって興味深い例が指摘されている。

 Enter Bullingbrooke with the Lords to parliament.

Q of King Richard II, G4r

Enter as to the Parliament, Bullingbrooke, Aumerle, Nor-thumberland

F of King Richard II, TLN 1921

上記Qのト書きは、登場する場が「議会に」とあるのみだが、Fでは "as" が補われることによって「議会を想定して」という意味に変わっている。このことから「議会」ということばは「物語言語」であると証明でき、ト書き全体としては、Qが「物語言語」、Fが「舞台言語」で書かれていることになる。内容的には同一のト書きが、わずか "as" 一語だけで言語の位相に差異を生じさせてしまう。

 では、"Enter..." というト書き自体は「物語言語」なのか「舞台言語」なのか。Dessen はそれには触れていないが、この問題も極めて難しい。"Enter Hamlet." が「ハムレット役者」や「プロンプター」に向けられたものではないということは確認した。したがって、これは「舞台言語」ではない。では、「物語言語」か。すでに見たように、このト書きは、物語内の「デンマーク王子ハムレット」に直接に関わるものとして記されているが、しかし、「ハムレット、ポローニアスを刺す」というようなト書きと同じレベルの物語内の行為について言及しているわけではなく、それゆえ単純に「物語言語」であるとも断定できない。結局のところ、"Enter..." のト書きは Hosley の二分法を空しくする端的な例ということになる。とは言え、厳密に語法上の問題として考えたときにはそうであっても、きわめて現実的な上演の場においては、この記号は「役者」の出のきっかけを示すものとして使われ、その限り「舞台言語」として読まれるのが実際なのだろう。「デンマーク王子ハムレットは登場せよ」という、いわば超物語的な言語が、"Enter..." の特殊な語法とともに特別な高みを与えられて、慣用のレベルでそっくりそのまま「役者」や「プロンプター」のための芝居用語にずれ込んでいると言えよう。"Enter Will Kemp." と役者名が進入してくるゆえんもそこにある。

 「物語的」か「舞台的」かの区別という点では、「退場」のト書きの方が理解しやすい。"Exit." や "Exeunt." の語法上の問題点は "Enter...." よりはるかに少なく、O.E.D. によれば、ラテン語に出自があるそれらは、三人称単数直説法現在、三人称複数直説法現在と説明され、もとより "Enter...." の用法とは異なっていることになる(後述するように、そう断言できるかどうかは疑問だが)。ラテン語法という特殊な記号性が、すでにこのト書きの「舞台言語」性を強調することになるが、加えてこれは、ただひたすら役者が舞台から去ることのみを意味するためにあり、役者が(せりふなどによって)自分の退場の契機さえつかめれば、ときに不要ともなる。「物語言語」であるなら人物の出入りに物語内の整合性が求められてしかるべきだが、機能に徹したこのト書きは、「登場」のト書きと常に数が照応しない。

 ところで、ト書きとしての "Enter...." に「三人称命令法」という不可解な用語が長く使われてきたのは、なぜなのだろうか。先述のように、ひとつには、命令法の二人称 vocative と叙想法のなかの三人称とが区別しにくいという事情も手伝って、三人称主語に関わる「仮定法」の別名として「三人称命令法」ということばができたのかもしれない。いずれにせよ、その指し示す観念に大きな差はないだろう。ただ、「三人称命令法」ということばの成立には、もうひとつの別な事情も関係しているように思われる。"Enter" についての O.E.D.の記述は、こう続いている。

As to the grammatical character of 'enter' as a stage direction, cf. the Lat.

directions in Calisto & Meliboea 1520, which has frequently intret, exeat,

and those in Udall's Roister Doister 1553, where exeat, exeant, cantent, etc.

appear throughout; also Bales' Kynge Johan: 'Here the Kyng delevyr the crowne

to the Cardynall', 'Her go owt Sedwsion', 'Here the Pope go out', 'Here cum

Dyssimulacyon syngyng of the letany', etc.

 これによれば、エリザベス朝のト書きの語法は中世ラテン劇のト書きに出自があるようで、その名残を示すものとして、Calisto & Meliboea や Roister Doister に見られるラテン語のト書きがあることになる。ここに記されているラテン語の変化形は、中世ラテン劇に現われるト書きと同様、「接続法」conjunctive である。intret は intrare (英語の "enter") の三人称単数接続法、exeat は exit の三人称単数接続法、exeant がその三人称複数接続法、cantent は canto (英語の "sing") の三人称複数接続法。ラテン語にも「三人称命令法」という範疇は存在しないのだが、この「三人称接続法」(仮定法)conjunctive は、紛らわしいことに、その意味用法として「命令」を表わすという項がある(一人称の場合は「推奨」、二人称で「禁止」、三人称が「命令」。ただ、これは「命令法」の "imperative" と区別して "jussive" と呼ばれる)。

 ちなみに、中世の宗教劇のト書きの例を見てみよう。Glynne Wickham は教会の儀式が再現行為へと高まり、演劇へと結実していくさまを生き生きと描いたが、その経緯を推し量る尺度になるのがト書きであるとする(The Medieval Theatre, 3rd. ed., Cambridge University Press, 1987)。

Hic veniat Angelus cum gladio. Balaam tangit Asinam,

(Here let there come an Angel with a sword. Balaam prods the Ass,)

et illa non procedente, dicit iratus.

(but since it will not move he speaks angrily.)

フランス北部に記録が残る13世紀の劇だが、リアリスティックな直説法の描写に先んじて、登場の指示が「接続法」で記されている。これが "Let..." と英訳されていることに注意しよう。「三人称命令法」を持たない英語では、あくまで慣例上として、ラテン語の「接続法」を "Let..." の構文で言い換えざるを得なかった。"Enter Hamlet." が "Let Hamlet enter." と言い換えられてきた次第だが、ラテン語の「三人称接続法」が仲介者としての二人称を必要としないように、この "Let..." の真意は「二人称を想定しない命令」なのである。Peter Dronke が編集した英語対訳版の中世ラテン劇集(Nine Medieval Latin Plays, Cambridge University Press, 1994)でもこのことは確認できる。

Postea vadat dormitum, et angelus cantet:

(After this, let her go and sleep, and an Angel shall sing:)

 O.E.D.に続いて挙げられている Bale の Kynge Johan からの例−−"Here the Kyng delevyr the crowne to the Cardynall"−−などは動詞の原形を使用したものだが、これが英語本来の「仮定法」となる。こういった事情から考えると、「三人称命令法」という用語は、おそらくは、「命令を表わす三人称接続法」jussive conjunctive というラテン語文法の用語から、誤解に基づいて作られた可能性もある。

 ともあれ、最初に提示した疑問の大半はこれで解決したかに見える。しかし、以上は "Enter..." というト書きについて知るべきことの半分にも満たないだろう。試みに、このト書きの源流になるものとして O.E.D.に引かれていた Roister Doister のなかのすべてのト書きを列挙してみよう。

 28 Mathewe Merygreeke. He entreth singing.

 94 Rafe Roister Doister. Mathew Merygreeke.

 277 Exeat.

 280 Mage Mumblecrust, spinning on the distaffs.

   Tibet Talkapace, sowyng. Annot Alyface knittyng.

   R. Roister.

 337 Then they sing agayne.

 351 They sing the fourth tyme.

   Then give we all over, and there let it lye!

 356 Lette hir caste down hir worke.

 360 Exeat.

 419 Here lette him tell hir a great long tale in hir eare.

まず気づくことは、人物の登場に "Enter..." という形が使われていないことである。人物名のみ記され、それがすなわちその人物の登場を意味している。唯一 "enter" が使われている箇所は直説法となっている。かと思うと一方、退場のト書きが後の直説法("Exit")ではなくラテン語の「三人称接続法」("Exeat")で書かれていたり、さらに興味深いことに、"Let..." の形がすでにト書きとして書き込まれていたりもする。15世紀の道徳劇、Wisdom(John C. Coldewey, ed., Early English Drama, Garland, 1993 を参照)にも "Enter..." はないが、直説法による登場のト書きは見られる。

  Fyrst entreth Wysdome..

Here entrethe Anima as a mayde...

退場については、これもやはり「三人称接続法」の形が示され、しかし、綴りが崩れていて、"Exeant" となるところが "Exient" に変わっている。Mankind にも "Enter..." はおろか登場のト書き自体がない。ただし、ここでも退場に関しては「三人称接続法」が頻出し、綴字法が確立していなかったためか、"Exiat", "Exiant" という異形になっている(このように崩れ続けて行けば、エリザベス朝本流の、形の上からは直説法である "Exeunt" にもなりかねないのではないか)。

 中世劇のラテン語によるト書きが、この過渡期的に雑多な要素が混ざった中間点を経て、エリザベス朝演劇の本流にたどり着くのだろう。とすれば、登場を表わすあの "Enter..." は、いつ登場したのか。このさらに興味深い問題のためには、稿を改めなければならない。

(本稿を書くにあたって、岡本靖正氏、中山恒夫氏、その他の方々から多くの示唆を与えられた。)