場所を変えて読む
──ポストコロニアル批評の展開
*ピーター・ヒューム
大方の批評家の認めるところでは、シェイクスピアはウィリアム・ストレイチーの「真実の証言」1を、おそらく、ヴァージニアにおける一六一〇年七月一五日付の手紙というかたちで読んでおり、それによってバミューダの遭難事故について知ったということになっている。しかし、バミューダ諸島での遭難やそこからの帰還がさしてめずらしい事件ではなかったということは、強調しておくだけの価値はある。やはりシェイクスピアが知っていたとも考えられるハクルートの『イギリス国民の航行・航海・交通および発見』2にはヘンリー・メイの報告が収められ、そこには、少なくとももうひとつのバミューダの遭難事故が記録されている。メイは、一〇頁にわたる簡潔な「短い覚え書き」を通じて、西ヨーロッパが早くも帝国主義的および重商主義的拡張を遂げるこの時期に世界が急速に縮小しつつあるさまを鮮明に描き出してくれる。エドワード・ボナヴェンチャー号(ジェイムズ・ランカスター船長)に乗船して一五九一年四月、他の二艘とともにイギリスを発ったメイは、東方に向かう最も初期の航海士として、さながら私略船に乗って敵船捕獲に赴く気分であった。彼らはカナリー諸島を経由して南に向かい、ポルトガル船を拿捕し、喜望峰をまわり、その後嵐のなかで仲間の船と離ればなれとなる。マダガスカル島に着き、ザンジバル島で冬を越し、マラッカやスマトラ沖でさまざまなポルトガル船を奪う。船乗りが騒動を起こしたためやむなくセイロンを発ち、一五九三年三月に再び喜望峰をまわって、セント・ヘレナ島でジョン・シーガーという漂着者のイギリス人の仕立屋と出会う。食糧が不足していたので彼らはトリニダード島に向かい、ヒスパニオラ島沖で帆柱を失ってフランスの船に助けられるが、陰謀にまきこまれ、フランス人船長によって人質に取られ、そして、バミューダ島に難破する。そこで彼らは比較的快適に生き延び、船を造ってニューファンドランド島にたどり着き、そこからイギリスの船に乗り換え、一五九四年八月、出発してから四〇ヶ月後に、イギリスへと戻ったという次第である。
現存する最も古い地球儀はマーティン・ベイハイムによって作られたもので、その年代は一四九二年とするのがいままで妥当とされてきた。その地球儀は、まもなくコロンブスの手によって破壊されることになる旧来の三大陸世界を表わしていた。しかし、地球儀という観念そのものが、きわめてしばしば近代性証明だと見られてきたあの、世界のさまざまな場所が互いつながっているという意識を、物理的なかたちに捉えているように思えるのである。したがって、おそらく、現存するイギリスの最初の地球儀は、ヘンリー・メイが不在であった数年のうちのある年、つまり一五九二年のものとみなすのもやはり妥当だろう。地球儀というものは、世界一周──ホァン・セバスチャン・デル・カーノが一五二二年に達成し、ドレイク卿がイギリス人として初めて一五八〇年に成し遂げた世界一周──の予兆となっていたのである。
イギリスの初期の地球儀の一つ──それは一五九二年のものの複製ですらあるかもしれない──が、一六三九年にアランデル伯爵二世トマス・ハワードとその妻を描いたアントニー・ヴァン・ダイクの絵画のなかで重要な役割を果たしている。その絵はハワードのマダガスカル植民計画を記念するもので、彼は王の承認を得てこの企画に着手したのだが、その後二五〇年にわたってヨーロッパから行なわれることになる同様のマダガスカル植民計画同様、まったく実を結ぶことはなかった。この絵のなかでは、マダガスカル島は地図として描かれ、地球儀上の位置を定められ、包囲され、脅かされている。それは、家族の紋章を表わす動物と座右銘の書かれた紙片、ハワードの左手に握られた杖、および島を指し示す右手の人差し指によって包囲され、ハワードが上着の下に着た鎧と、妻の伯爵夫人が気もそぞろに島の大きさを測ろうとしているコンパスとによって脅かされているのだ。
メイは一回の船旅だけで、イギリスやマダガスカル島やバミューダ諸島を嵐と遭難と漂着と帰還とに結びつけた。私は、メイがシェイクスピアの材源の一つだなどと言っているのではない。指摘しておきたいのは、たんに、一五八〇年代までにはイギリスの記録に世界が──それも、言葉としてはまだほとんど使われていなかったが潜在的に帝国主義的な意味合いにおいて──存在したという事実、すなわち様々な場所や名前が書き込まれた地理学書があって、それらすべてが劇場としてのグローブ(地球)座という隠喩を活性化したという事実である。デル・カーノの船旅はシェイクスピアにシコラックスの神であるステボスのことを教え、ストレイチーはエアリエルが魔法の露を取りに行かせられるバミューダ諸島のことを教えた。マダガスカル島は一七世紀初頭にはすでに帝国主義的な想像世界の一部になっていたのは明らかだったにしても、シェイクスピアの世界に入っていくのにはもう少し時を待たなければならなかったのだろう。
1
ポストコロニアル理論をめぐる新たな問題意識の一つは、西欧の批評的語彙の地域性を、その言語が従来誤ってなしてきた普遍性という主張を打破する手段として同定することにある。概念語を位置づけること──場所を与えること──は、特定の地域を越えて世界を把握するためにその概念をよりいっそう機能させることにほかならない。ヴァルター・ベンヤミンはかつて、言葉は帆であり、その据えつけられ方が概念への転化を決定すると述べた。ポストコロニアル理論は西欧の言語の据えつけられ方を研究してきたし、ポストコロニアル批評自体が、しばしば意図的に原義通り地域固有の視点に立ち、その地域的資源──必ずしも生まれ育った場所でなくても──としての言葉を新しい世界への旅立ちに向けて「据えつける」ことで概念語を展開させてきた。
文学テクストと解釈者の立地との関係をめぐって歴史学の側から提起されたいくつかの設問については、よく知られている──四〇〇年も昔に、私たちの住む世界とはまったく違う世界で書かれた『テンペスト』のような文学作品を、私たちはいかに解釈できるのか、作品に対して私たち自身の見方を押しつけないですますことができるのか、また、押しつけてはいけないのか。解釈学という学問分野はこういった類いの設問の踏査に携わってきた。ポストコロニアル理論は、こうした設問は地理的ないし空間的な同類の問題を孕んでいること、すなわち、テクストを読む時間という問題がテクストを読む場所という問題とまったく等価であるということを、言っている。言語や読者の位置づけに対するその種の関心がもたらした成果は驚くほどのこともないが、しかし、今世紀のつい先ごろまでそのようなことは言及に値しないと思われていた。長年にわたってシェイクスピアはイギリス的視点からのみ読まれ、そういった読み方があまりに当然とみなされているために、それは一つの視点にすぎないという事実に誰も気づかなくなっているほどである。それ以外のシェイクスピアの読み方は、存在しなかったのである。イギリス以外の国でイギリス文学を読むことは、あたかもイギリス国内で読んでいるかのような読み方を身につけることをかつては意味していた。そして、イギリスで『テンペスト』を読むということは、つねにプロスペローの眼で読むことであり、その魔術のような散文にうっとりと聞きほれ、劇の他の登場人物、とりわけエアリエルとキャリバンの言い分をプロスペローとともにいらいらと聞き流すことにほかならなかった。
国籍というものが解釈に重要であったならば、同じく地域の問題である教育や階級も重要であったことになる。長年にわたって、オックスフォード、ロンドン、ケンブリッジが形成する黄金の三角形の内側で仕事をしてきた批評家たちは、イギリスの他の地域の人には誰も──まして植民地や英語を話さない国々の人には当然──与えない解釈の権威を自分たちだけで独占する傾向があった。アフリカと西インド諸島におけるイギリスの植民地支配が公式に終わりを告げた後までも長い間、それら新独立国の学生に課せられた試験問題は、ケンブリッジとオックスフォードで作成され、採点されていた。文化的権威の源泉は依然としてイギリスにあるというわけだ。これはいまは事実ではないか、さもなければ、かつてほど事実ではなくなっている。制度的な関係に限れば、この文化的権威の拠点は移動したか、おそらくは消えてしまったのだろう。これまでのところ、それは国家としてのイギリスのみならず、イギリスのごく一部の地域に集中し、そここそが国民と文化の代表であって、それゆえに国民文学とその解釈方法を守護する場所であるとみずから思い込んできたのだった。そういった権力が、消えたり、目立って弱くなったりしたわけではないのは、かなりの割合の政治家や官僚がこれら三大学で育成されているという事実を見れば分かる。しかしながら、その文化的権威は、一つにはシェイクスピアの新しい読みを突きつけられて、かなり弱体化してきた。そして、そのポストコロニアル的な視点による新しいシェイクスピア読解は、とりわけ『テンペスト』をめぐってなされてきたのである。
2
『テンペスト』の歴史をごく簡単に概観すると、その上演と作品解釈は三つの時期に分けられる。劇場再開後に最初の上演があった一六六七年から一八三八年までが第一期で、この時期、通常は(ドライデンとダヴェナントの)改作版が上演され、しばしば壮観なミュージカルや本格的なオペラとして舞台化された。一八三八年は重要な年で、一切の改作版を拒否して原作のフォリオ版まで立ち戻った新たな『テンペスト』が初めて上演された。この古典主義とも呼ぶべき第二期は一八三八年に始まり、第三のポストコロニアル期と重なりながら現在まで続いている。ポストコロニアル期は一九五〇年に始まるが、実際に優勢になってきたのは、ようやく一九七〇年代、八〇年代に入ってからのことだった。
イギリス帝国主義が隆盛を極めたのは一九世紀後半で、まさにそのころシェイクスピアは国民詩人ないしイギリス文化の体現としての地位を与えられ、またそれゆえにシェイクスピアは、文明のいまだ浸透していない世界の各地に大英帝国が輸出していた価値ある事物の象徴とみなされていた。シェイクスピアの全作品のなかで『テンペスト』こそ、シェイクスピアに託されたこの理念を実現してくれるおそらくは最も重要な作品だった。『テンペスト』はシェイクスピアが書いたとされる最後の劇、いわば最終陳述であり、敷衍すれば、シェイクスピアその人と同一視されるプロスペローは、魔術を捨て去る魔術師、祭りの終わりを宣言する劇作家とみなされてきた。新しい上演が最初に行なわれた一八三八年に批評家が述べたところによれば、『テンペスト』は「巨匠の手になる最後の作品として一種の聖なる特性すら帯びている。シェイクスピアは、それが彼の最後の作品となることを意識していたかのように、そしてみずからを象徴と化すべく感じ取ったかのように、主人公[プロスペロー]を尊厳と慈愛に満ちた天成の魔術師に仕立て上げた」のだ。
一方この劇は、大英帝国がシェイクスピアの時代に開始して一九世紀半ばに膨大な規模で拡張した植民地化の現象を、プロスペローとキャリバンの関係のなかに表わしているとも考えられた。プロスペローはつまりはキャリバンの教師であり、キャリバンも、天体のことを理解し、言葉を話せるようになったのは、プロスペローが教えてくれたからと認めている。プロスペローは、キャリバンに対して「気の毒にと思って尽くした労苦」のことを感慨深く語る。かりに教育の成果が必ずしも上がらず、かりにキャリバンがプロスペローの娘を強姦し、彼の権威を覆そうとするようなことにでもなれば、それはこういうことを示すためなのだ、という具合に議論は進む。つまり、感謝など原住民に期待できず、文明を施す任務はかくも重く辛い、というわけだ。一八七六年に『テンペスト』は、ラグビー版という実にうまく命名された新シリーズ版で出版された。これはシェイクスピアを学校生徒に読みやすくするために企画されたもので、まさに巨大な帝国の中心となるべき国民とともに、国民文化という意識を形成するためであった。その編者は、キャリバンについて次のように述べざるをえなかった──
この[キャリバンという]登場人物は、われわれが新たな植民地を発見しつつある時
代に直面しなければならない大問題と密接な関係があるようだ。(中略)初めて文明
と接する野蛮な人種にとっては迫る危機であっても、われわれは、精神的にも道徳的
にもより強い者による権力の奪取を、それが野蛮人を教育して人間的にするために成
される限り、正しい行ないとみなすことができる。
これこそ植民者権力を身に帯びる際に用いられる常套的な正当化の手口である。関連する語句としては、「野蜜人を教育して人間的にするために」という箇所がそれであるだ。この時期には、最も支配的な読みのなかでシェイクスピア自身とされたプロスペローと、未教育で非人問的な野蛮人であるキャリバンとを対照させる明瞭な二分法がまかり通っていた。キャリバンはどのような外観であるべきかという問題が、『テンペスト』の上演にいつもつきまとう。古典主義の時期を通じて、キャリバン像は、ヨーロッパ人が非ヨーロッパ人をどう見ていたかに応じて変化してきた。むろん、この見方自体が、一九世紀の進化論の影響を強く受けている。ダーウィンが一八七一年に『人間の由来』を出版した直後、あるカナダの英文学教授が『キャリバン──失われた環』3という本を書いた。この中で著者は、キャリバンを「進化の仮説に従えば、猿と人間の中間に存在したにちがいない新種の高等類人猿で、知性のひらめきが見られるが、それが開花するには、自然の秘密をすでにわがものとした人間の指導を要する」と描写している。こうした人間と動物の境界に位置する非ヨーロッパ人としてのキャリバン像は、長きにわたって『テンペスト』の上演と批評に影響を与えてきた。キャリバンは、植民地時代の非ヨーロッパ人に対してヨーロッパ人が抱いていた固定観念──振る舞いは原始的、性衝動は攻撃的、教育は困難──を表わしている。
3
メレディス・スクラ4が『テンペスト』の「修正主義的」批評と呼ぶもの──ここではそれをポストコロニアル批評と呼んでいるが──に関する論述は、そのほとんどがオクターヴ・マノーニの『プロスペローとキャリバン』5にまず言及する。この本を通じて、『テンペスト』が戦後の脱植民地化世界に持ち込まれ、第三世界の作家は、善きにつけ悪しきにつけ、自分たちと西欧の文学的・政治的伝統との関係性を取り決めるために、『テンペスト』をいわば型板として使うようになった。
オクターヴ・マノーニは、フランス人植民地官僚、アマチュア民族学者、そして精神分析初学者で、一九四〇年代後半にはマダガスカル島で情報局員を二〇年間も勤め上げていた。彼は一九五〇年に『植民地化の心理学』と題された著書を刊行する。マノーニはジャック・ラカンから精神分析の指導を受け、後に傑出したフランスのフロイト主義者になり、最終的には「批判的ラカン主義」とでも言うべき立場をとる。しかし、『植民地化の心理学』を書いたころの彼は、彼自身の説明によれば、精神分析の熱心な初心者にすぎなかった。そのため、マノーニが提起する議論には単一の精神分析の枠組みなどなく、むしろその分析は大まかなもので、大部分まだ理論化されていない対比──「依存コンプレックス」と「劣等コンプレックス」とが特徴づける二文化の対比──によって行なわれていた。「依存コンプレックス」の性格を有する文化は、適正状況に置かれると植民地になる傾向があり、「劣等コンプレックス」の性格をもつ文化は、これまた適性状況に置かれると他の文化を支配して植民地化する傾向がある。それぞれのコンプレックスに対応する二つの「人格類型」が、それぞれ『テンペスト』におけるキャリバンとプロスペローの人物像に原型として見いだされる、というわけである。マノーニの分析の文学的局面は、一九五六年の英訳版に付された『プロスペローとキャリバン』というタイトルによってさらに強調されることになる。
まずもって興味が引かれるのは、ここでマノーニを紹介するために用いた言葉──フランス人、植民地官僚、民族学者、マダガスカル、精神分析──がことごとく、イギリス文学の解釈にとって彼を周縁的な存在として示しているという事実である。前述した黄金の三角形からこれ以上遠ざかることはほとんど不可能であろう。マノーニは、正統な場所に位置づけられていなかったがために、その発言に権威が与えられることは決してなかった。だが、この不利な立場にもかかわらず、彼の著書はほとんど察知されないほど徐々に、『テンペスト』の読解と上演に影響を与えていった。その影響は、明らかにマノーニの著書に基づいて制作されたジョナサン・ミラーの二つの上演(ごく最近では、一九八八年のオールド・ヴィック劇場における上演)で頂点に達する。
マノーニがこの本を執筆していたとき、マダガスカルの独立運動が起こり、その巻き返しとしてフランス軍が六万人以上の島民を虐殺するという事件があった。そしてマノーニはこういった残忍な反応を起こす明白な心理を、まさにプロスペローのうちに読みとったのである。島の他の住民に対して見せたプロスペローの不寛容で神経症的な人格は、一種のパラノイア的な特徴を示していて、マノー二によれば、それは、未解決の幼児期コンプレックスを抱えて、隔離された文明の前哨点に寵もり、その全能ファンタジーのままに生きる人の症状に共通する。『テンペスト』研究の古典主義的時期には、慈愛あふれる魔術師プロスペローというイメージが優位を占めていたが、そこからここまでは何と長い距離のあることか。
影響という問題は複雑である。マノーニの著作が初めにフランスで一九五〇年の出版を見た直後、かつて彼の生徒であったエメ・セゼールに厳しく批判され、次にエメールの生徒のフランツ・ファノン6から批判を受けた。しかし、どちらも実際には『テンペスト』に触れておらず、一九六〇年に書かれたジョージ・ラミングのキャリバン論ではマノーニに言及がなく、キャリバンについて書いた島の三執政官の三人目、フェルナンデス・レタマールが出したマノーニの名前はファノンの孫引きにすぎなかった。一九五六年にマノーニが英語に翻訳されたとき、その序文を書いたのは、当時の王立国際関係研究所の人種問題研究部長で前植民地行政官のフィリップ・メイソンだったが、その主たる関心はセゼールやファノンと同じく依存の理論にであり、しかしセザールやファノンと異なり、彼はそれに賛意を示した。この特殊な円環を閉じるべく、一九六二年に西インド諸島ユニヴァーシティ・カレッジで行なわれたメイソンの講演(『プロスペローの魔術』と題されて刊行された)は、当時出版されて間もないラミングの『追放の歓び』7に一部応え、キャリバン像に対するはるかに肯定的な反応を示したものであった。
キャリバン像のポストコロニアル的転用の流れのなかで、かくしてマノーニは起点に位置づけられ、ロブ・ニクソンの表現によれば「就任辞令」ということになるが、ファノンとセゼールの修正案を喚起した悪しき例でもあった。しかしながら、セゼールやファノンの議論はマノーニが『テンペスト』をめぐって述べた部分には向けられてはおらず、もっと後になってセゼールは自分で劇を改作することになるのだが、キャリバン像について、この時点では、二人とも言及すらしていない。ニクソンは、いわばファノンの肩越しにマノーニを読み、島の正当な所有権に対するキャリバンの主張(「この島はおれのものだ」
1.2.333)をマノーニが排除するのは誤りであると指摘し、また、一九六〇年代に入ってからの第三世界の側の反応が、キャリバンを「依存的」とするマノーニの見解と相入れないものとなっていると述べる。その結果、あとに続く転用は、はるかに英雄的なキャリバン像を提示する傾向を持つようになり、一方、他の批評家は、ポストコロニアル問題について熟考する(think through)にはプロスペロー=キャリバンの関係だけでは明らかに限界があると言い出した。それは、そもそも西欧文学の正典テクストを通して考える(think through)ことのアイロニーを言い当てたものでもあった。だが、ここで興味を引くのはまったく別の系譜にであり、それはマノーニを『テンペスト』の修正主義的読解の筆頭に置くものだ。言い換えれば、作品の読解と転用を、完全には無理だろうが、別のものとして分けておきたい。つまり、マノーニが提出した作品分析の適切さをそのまま指示しつつ、同時に、ポストコロニアル文学批評の草創期という時代と場所のなかで彼を理解する必要性も力説したいのである。セゼールやファノンは、一七世紀の劇の読解とは異なる枠組みを持ち、その枠組みの方をはるかに重視しているが、彼らの眼を通して見るのではないのだ。
4
『プロスペローとキャリバン』の最新版に序文を付したモーリス・ブロックは、マノーニのマダガスカル理解について全体としてはかなり批判しつつ、著書の内容を三つの点で評価した。それは、第一に、アフリカ社会を理解するに際して、植民地時代の経験を中心に据えたこと、第二に、その方法が「反省的民族学」の初期の実例となっていること、第三に、植民地化の心理学を研究するには、被植民者だけでなく植民者に着目しなければならないという異例の認識をもっていたことである。
この三点はいずれも、おそらく、マノーニが書いていた当時の歴史的文脈に関係づけることができるだろう。イギリスでもフランスでも、第二次世界大戦後の数年間は、植民地問題が急速に前景化された時期だった。イギリスは、いさぎよい態度ではなかったものの、インドの独立を認め、フランスは、海外の領土を断固保持する政策をとり、マダガスカルの島民蜂起を残忍に鎮圧した。こうした政策の残響は、戦後期を通して、とりわけ東南アジア、そして今日でも太平洋地域に窺える。
ポストコロニアル理論の起源は、今世紀前半の植民地圧制という状況のなかで思考を進めた者たち、たとえばエメ・セゼールやC.L.R.ジェイムズの著作に見てとるべきだろう。彼らは、第二次世界大戦後、ヨーロッパの理論家たちに強い影響を与え始めた。この時期、フランスで最も重要な人物はミシェル・レリスとジャン=ポール・サルトル
である。植民地主義と民族誌学との関係を研究したレリスの「植民地主義を前にした民族誌学」(一九五〇年)は、この問題について現在に至るまで最も深く考察したものと言える。著者は民族誌学の仕事経験(一九三一〜三三年、ダカールからジブチに至る雄壮な旅8)を有するが、文化人類学の厳密な学問領域からは自由だった。サルトルは、黒人特質をめぐる詩と理論をヨーロッパ的な思考範疇に対する真摯な挑戦とし、さらに、反ユダヤ主義に関する彼自身の著作はファノンの初期の論文に多大な影響を与えた。マノーニは、この仲間たちのなかにあっては、おそらく脇役的存在にすぎない。しかし彼は、フランスの植民地政策当局に対して、マダガスカル島の植民地のただなかから異議を申し立てるという類いまれな立場をとった。彼は「植民地状況」を自身の分析課題に据えたのだが、一九五〇年以前にそれをした社会科学者はほとんどいなかった。植民地状況のなかに存在する民族誌学者として、みずからの位置を真剣に内省したのだ。マノーニによれば、民族誌学者がこれまで植民地状況を無視してきたのは、植民地化された社会は「混血児にされた」(
bastardized)とみなし、したがって研究に値しないと考えたからだった。「科学的客観性を重視する彼らの姿勢は、自身の特性を観察領域から外し、しかも混乱させることに、白人の特権をまとって現われ、研究が困難になる原因を作っている。これは、植民地状況のある局面に対する正しい理解を自分から拒む、ほとんど病気のようなものだ。」 また、別の箇所でこう述べる──「わたしは、自分にとってまったく新しい社会生活に入ると、想像のなかでも現実でも、われ知らずそれに参加してしまっていた。そして、わたし自身の本質といったものが徐々に変えられてゆくのを驚きとともに悟ったのだ。」 だから最も重要なことは、ブロックの言うように、キャリバンとまったく同様にプロスペローも分析されねばならないとマノーニが確信していた事実である。換言すれば、彼は、自然なものとされるようになった植民地支配の関係を取り上げ、文学作品の類似物を通じて正体を暴くことによって、目に見える醜聞としてそれを構成したのだ。同時に、これは彼の主たる関心事ではないのだが、こういった植民地的側面が認識されない限り『テンペスト』の研究をすべきではないとも指摘している。マノーニの著書は、英訳版のタイトルにもかかわらず、『テンペスト』への言及箇所が比較的少ない。「劣等」と題された第二部は「クルーソーとプロスペロー」という章で始まり、ヨーロッパの主役二人に焦点を合わせて行なった『ロビンソー・クルーソー』と『テンペスト』(九七〜一〇九頁)の分析を収めている。それに先んじて、キャリバンに触れた一節(七六〜七頁)と、続くわずかの参照がある。したがって、これらは詳細な分析と言うより示唆的なコメントの類いである。
キャリバンに関する二つの短い議論は、概略同じことを言っている。両者合わせても劇からの引用は三箇所だけで、その一つは繰り返しである。が、二つの議論がまったく同じというわけではない。「クルーソーとプロスペロー」の章で、マノーニはプロスペローの神経症的な父権主義について論じ、それがミランダやエアリエル、キャリバンたちとの人間的な関係確立を阻んでいる、とする。キャリバンはプロスペローによって無情に搾取されている、とマノーニは言うのだ。
だが、キャリバンは搾取されていることに不平を言うわけではなく、むしろ不満なの はだまされたということに対してで(中略)、あからさまにこう言う──
・・・おまえさんが最初にやってきたとき
おれをかわいがって、大事にしてくれた。おれに
木の実が入った水もくれた。そして、昼と夜に燃える
あかりの、大きい方は何と言い、小さい方は何と言うか、
教えてくれた。だから、おれはおまえさんが好きになった。(
1.2.334-8)
でも、いまは──
・・・そのおれをこんな
固い岩穴に押し込んで、おまけにあんたはおれから
島じゅうを取り上げてしまった。(
1.2.344-6)
キャリバンは依存関係の破綻のあげく怒り怨恨に身をさらした。(中略)彼は、この 絶望的な状況において、プロスペローに対し謀反を企てる。だがそれは、自由を獲得 するためではなく──彼は自由に耐えられないのだ──その足元にひれ伏す新たな主 人を得るためだった。彼は期待に胸ふくらませる。これ以上純粋な依存コンプレック スを見出すことは難しいだろう。
ファノンやセゼールの読みはマノーニのキャリバン解釈に真っ向から対立するものなので、この部分にこそ、彼らは異議を申し立てなければならないだろう。あらゆる被植民者を象徴するキャリバンが、プロスペローに対し依存関係を持ち、それが破綻すると憤慨するとはっきり書かれているのだ。植民地としての関係自体が恨まれ、その破綻が望まれるという、独立を讃える議論の基盤がこれでは覆されてしまう。本来的に依存を求める原住民という心理的な側面が、フィリップ・メイソンを除いて、後続の評者たち全員の恨みを買うことになったのは、まことにもっともなことである。
二点、注釈を付けておきたい。マノーニがこの三〇頁前で同じ議論を展開したものは、やや異なった意味合いに読める。そこでは彼は、一九四七年の叛乱における「ヨーロッパ人化した」マダガスカル人の役割について述べている──
完全にヨーロッパ人に同化させられた者たちは、もと同朋との関係を絶ち、その後は 彼らに何の力も及ぼさなかった。同化が不完全な者たちこそが、率先して叛乱を煽動 した。彼らはヨーロッパ人に対して本当に憎しみを抱きやすい立場にいるのだ。
あんたはおれに言葉を教えてくれた。おかげで
呪いの吐きかたを覚えたよ。・・・(
1.2.365-6)
──というキャリバンの名言は、状況を単純化しすぎていはいるが、真実を突いてい る。キャリバンには野蛮で教化不能な本能しかないということではなく、また、プロ スペローがそう信じているように、彼は良き種からも悪しき実を結ばせる不毛の地に すぎないということでもない。本当の理由は、キャリバンみずからが答えている──
おまえさんが最初にやってきたとき
おれをかわいがって、大事にしてくれた。
・ ・ ・
だから、おれはおまえさんが好きになった。
それなのに、おまえと同じようになる間もなく、おれを捨てた・・・。つまり、おま えは依存するということをおれに教え、おれは幸せだった、なのに、おれを裏切って、 劣等の底に沈めた──というわけだ。
この依存命題に対して成された数々の批判からマノーニを弁護しようとしているのではない。弁護はできないし、むしろそうではなく、この初期の議論では別の問題が強調されていることを確認する必要がある。すなわちそれは、「おまえは依存するということをおれに教え」という言葉に要約されている。「依存」が心理学的傾向ではなく、教えられた行動様式であるなら、ずいぶんと異なったものに見える。マノーニがたまたま教育というテーマに導入してくれたことは、この劇の始まる以前の物語にとって非常に重要な問題で、誘発された「依存」という考え方が植民地状況の心理学の研究にある程度有効かもしれないというヒントを与えているのだ。
しかし、このようなことを言い出せば、「教えられた」という概念がマノーニの民族心理学的分析にとって不本意なものであると認めなければならないことになる。それに、いずれにせよ、教育も受けていず、おそらく言葉も知らない成人として出会ったキャリバンの状況を、フランスが島を支配した一八九〇年代、かなり複雑で読み書きできる文化体系をすでに持っていたマダガスカル人の状況と比較することはほとんど不可能だろう。いかなる文学作品も、特定の植民地関係を見るプリズムとしては最終的には不十分ということになるようだ。接触時点でのキャリバンの文化不在は、彼を申し分のないポストコロニアル的モデルとすることを許さず、ここで『テンペスト』の有効性は限界に達する。
『テンペスト』のポストコロニアル的読解にとって、キャリバンの「依存」は常に難問である。彼がステファノーを新たな主人として迎えるのも英雄的行為とはほど遠いし、ポストコロニアル的な転用に任せればここは改変されるところだろう。しかし、そもそもこの劇は第三世界の英雄を生み出すために書かれたのではないのだ。キャリバン=ステファノーの関係は、すでに植民地的類型となりつつあった状況を劇に取り入れたものとして読むことができよう。だが、同時に、植民地イデオロギーの力がいかに強いかを示す劇、プロスペローがキャリバンのなかに捏造した依存コンプレックスがいかに深いかを示す劇としても読める。もともと文化や言語が欠如していたため、プロスペローの教育はすべてを作り上げるものでなければならなかった。つまりキャリバンは、相当程度、プロスペローの被造物なのだ。キャリバンのステファノーに対する感応ぶりは、プロスペローの教え込んだ被支配者性(
subject-ivity)がいかに効果的であったかを物語っている。この時点で植民地関係は、虚構というるつぼのなかでその力学を模索しているかもしれないが、劇中に再現されていないのは明らかだ。もしこの劇が植民地関係を表現する意図を持っていたなら、劇中の「原住民」を無文化としたための失敗作に終わったと見るか、あるいは、そもそも原住民というものは文化をもっていないのだと思い込む罪を犯したと知るか、この時点でどちらか判断できるはずだろう。しかし、模索することと表現することは違う。とりわけ、劇中で模索されているのが、もっぱらプロスペローの──すなわち、蔓延するヨーロッパの権力の──力学である場合には。そこにこそ、ともかくもマノーニの強調点が存在するのだ。だが、マノーニの解釈は『テンペスト』自体の読解としていかに通用するのかという問題は残る。マノーニが説いていることは、プロスペローの動機に懐疑的な彼の見方ともちょうど一致することだが、プロスペロー、ミランダ、エアリエル、そしてキャリバンの、島での初めのころの生活について自分たちで述べた内容がそれぞれ異なっているという事実の持つ意味である。エアリエルとキャリバンが最も熱心な物語の語り手だが、プロスペローは、ミラノでの出来事に延々とこだわり、ミランダともども、反証と正当化のためだけに自分の物語を語る。プロスペローにとって唯一重要な事件は、キャリバンのミランダ強姦未遂であり、それが彼の下そうとしているいかなる厳しい措置をも正当化する。だが、その直前にプロスペローが語るのは、「わしはおまえを人情厚く扱った。わしの小屋にも泊まらせた」(
1.2.344-5)という言葉なのだ。ミランダとキャリバンの年齢を明かす証拠は劇のなかに上がっているので、こういった初期の人間関係についての推測を裏づけてくれる。ミランダ(三歳)とプロスペローが島に着いたとき、キャリバンは少なくとも十二歳だった。現在ミランダは十五歳ぐらい。プロスペローの言う強姦未遂が起こったのはミランダが思春期に達した直後と想像できる。つまり、比較的最近のことだ。それは、キャリバンが島じゅうをキャリバンでいっぱいにすると豪語することで確かに暗示されている。そしてキャリバンは、自分が知っていることはすべてプロスペローとミランダから学んだはずなのだから、彼が性交渉を出産と結びつけたということ、および、キャリバンとミランダとのあいだに産まれる子供を、ミランダとかミリバンとかでなく、「キャリバン」だと考えたことは議論に値する重要な意味を持っている。男の子はいないがすでに(男の)孫のことを考えているプロスペローこそ、おそらく、このようなキャリバンの父権制的仮定の源を成すのだろう。けれども一方、プロスペローはミランダにもすべてを教えたのだから(プロスペローが見ていないところでキャリバンから学んだこともあったかもしれないが)、二人のうちどちらがキャリバンに教えたかということは(これまで編者たちが論議を重ねてきた「いまわしい奴隷!」9のせりふはどちらのものかということも)大した問題ではない。ここはプロスペローの世界なのだ。そして、ミランダとキャリバンは、どちらも彼の被造物、教育の成果なのである。キャリバンに対するプロスペローとミランダの依存は──「あいつがいないと困るのだ」(
1.2.313)というせりふが皮肉にもマノーニの依存テーマを語っている──彼らが島に着いたときから始まっていた。現在のプロスペローが薪を運び込むことができないのなら十二年前もできなかっただろう。キャリバンがプロスペローの小屋に寝泊まりしたというのも、彼を家族の一員として迎え入れたといったことではなく、使いやすいところに召使いを置いておくのが便利だということにすぎない。彼が英語を話せるようになったのは、それも上手に話せるのは、おそらくミランダのおかげだが、読み書きはできず、それが証拠に、キャリバンは劣っていると初めからプロスペローにみなされてきた。キャリバンはプロスペローとの関係がどういったものか知っているのだ。
だって、おれはあんたのたったひとりの家来だが、
もともとおれが王様だったんだ。そのおれをこんな
固い岩穴に押し込んで、おまけにあんたはおれから
島じゅうを取り上げてしまった。(
1.2.343-6)
この言葉に対してプロスペローが即座に浴びせかけたのは、「この奴隷の嘘つきめ!」(
1.2.346)というせりふであり、続いて彼は強姦未遂のことを糾弾するのだ。キャリバンを閉じ込め排斥したという部分は事実通りと思われるので、嘘つきというプロスペローの告発は、彼らの政治的な関係性についてのキャリバンの言い分に向けられているのだろう。もっとも、プロスペローがキャリバンの分析をどれほど誤ったものと考えようと、キャリバンが実際にどこまで嘘をついているのか、その程度を見極めるのは難しい。ここでマノーニの主張に戻ることになるが、プロスペローを怒らせているのは、自分に突きつけられている家来と王様という言葉が、もともと自分自身で──ミラノの統治と謀反について昔からミランダに語っていた言葉が彼女から間接的に伝わったにしても──キャリバンに教えたものに相違ないという事実である。かくしてキャリバンは、プロスペローから習った言葉で彼の政治的な歴史を物語る。その単純な歴史にはたった二つの段階しかない──最初、彼は自分自身の王様だった、が、やがてプロスペローの家来になった。この従属関係は、もとより自発的なものであろうとなかろうと、国際法の範囲内では合法性を持ちえない。それは、純粋にプロスペローの力(魔術)への依存であった。その力は、最初は控えめだったが、強姦未遂を知って激しさを全開させる。強姦の「事実性」を決定することはできないが、しかしマノーニにとっては、それがマダガスカル島の事件との連想を直感させたと思われる。脅威を認識すると──それが事実でも想像でも──とんでもない反応が引き起こされる──
プロスペローは自身を正当化しようとする。キャリバンは娘の貞節を汚そうとしたの ではないか。こんな侮辱を受けてしまって、何の希望があろうか、と。しかし、この 議論は論理性を欠いている。プロスペローはキャリバンを遠ざけて、娘の安全を図る こともできたはずだし、キャリバンの教化と矯正を続けることもできたはずである。 だが、プロスペローの理屈はこうだ。おまえはミランダを犯そうとした。だから、お まえは木を切らねばならない、と。これは理性を欠いた思考と言わねばならない。こ の態度がさまざまなかたちを取ることがあっても、第一にそれは性的罪悪を根拠にし た憎悪の正当化にほかならず、これこそが植民地の人種差別の根底にあるものだ。
マノーニは、英訳版の注釈で、一九四七年にヴェールが剥ぎ取られ、まばゆい光が射し込み、植民地の現実が照らし出されたと述べている。それは、フランスの残忍な反動的暴力が、普段は視界から隠されているが、植民地関係そのものに潜在する真実──あるいは、真実のひとつ──であることを示すかのようであった、と。マダガスカルの叛乱に対するフランス側の鎮圧をキャリバンに対するプロスペローの反応と関連づけること、そして、どちらも非理性的で性的罪悪に根ざすとみなすことは、ポストコロニアリズム批評の基本的な姿勢である。その姿勢が内包するさまざまな意味合いは、依然としてシェイクスピア批評全体に響き続けている。
(加藤行夫訳)
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本稿は、一九九五年九月十日、筑波大学で行なわれた講演("Reading from Elsewhere: The Development of Postcolonial Criticism")を全文翻訳したものである。この時期、ヒューム教授は、西南学院大学、東京都立大学などでも講演・セミナーを行ない、それらの内容と本稿とは重複しながらも相補的な関係にある。主著『征服の修辞学』(岩尾・正木・本橋訳、法政大学出版局、一九九五年)(Colonial Encounters: Europe and the Native Caribbean, 1492-1797, Routledge, 1986, 1992)の第三章「プロスペローとキャリバン」、および "Stormy Weather: The Tempest and Colonial Discourse"(『英語青年』一九九六年一月号)、「奇妙な魚──ポストコロニアル批評とキャリバン像」(岩尾訳、『現代思想』一九九六年三月号)("Strange Fish: Postcolonial Criticism and the Figure of Caliban")などをあわせて参照されたい。**
『テンペスト』の幕・場・行はオックスフォード全集版に従う。
訳注
1 『ヴァージニア会社の報告書』
The True Declaration of the Estate of the Colonie in Virginia (1610) に言及したもの。ストレイチーの手紙自体は、"A true Reportory of the wrack and redemption of Sir Thomas Gates, knight, upon and from the islands of the Bermudas his coming to Virginia, and the estate of that colony" と題されて Purchas his Pilgrimes (1625) に収められている。2
Richard Hakluyt, The Principall Navigations, Voyages, Traffiques, And Discoveries of the English Nation (1598-1600), Glasgow, 1903-5.3
Daniel Wilson, Caliban: The Missing Link, Tronto, 1873.4
Meredith Anne Sukra, "Discourse and the Individual: the case of colonialism in The Tempest", Shakespeare Quarterly, 40: 42-69.5
Octave Mannoni, Prospero and Caliban: The Psychology of Colonaization, trans. Pamela Powesland, New York, 1964.6
Frantz Fanon, Black Skin, White Masks (1952), trans. Charles Lam Markmann, New York, 1967.7
George Lamming, The Pleasures of Exile, London, 1984.8 アフリカ大陸のほぼ西端から東端に至る。
9 このせりふはミランダのものだが、ドライデン以来、その口調などからプロスペローのものとみなす編者がいる。